三節 夜の森、銀髪の娘
足が縺れて俺は地面に転がった。バサバサと近く何かが飛び去った音がしたが、俺は顔を上げられずにいた。
地面に頬をつけたまま荒く呼吸だけを続ける。ひぐっ、と喉が鳴って、視界が滲んだ。
身体中が痛くて、喉が軋んでいる。
遠くの方から魔物の鳴き声がした。夜行性のオウル種だ――と頭に浮かんで、今が夜なのだとようやく気付く。
追放宣言をされた俺は、震える足で何とか王城を出て、城下町を駆け抜けて、近くの森へと駆け込んだ。
この森は、俺たちが初めて大きな成果を上げた場所だった。そう気付いたのは森に入ってしばらくしてからで、ラディーヌとユーシャと俺の、まだ三人だった時間を思い出させた。
それでも走って、走って、走り続けた。止まってしまえば、心臓が壊れてしまいそうだったから。
脳裏に浮かぶのは仲間たちの顔。
俺達は決して、仲が悪かったわけではなかった……はずだ。旅の途中、何度かアクシデントこそあったにすれ、支え合って、助け合って生きてきた……はずだった。
だけど、あの大広場での仲間たちは、俺のことを足手まといで、役立たずだと罵った。
魔法か。魔薬か。偽物か。淡い期待は消えてくれなかった。
だけど、あの場で逃げ出した俺が今更何を言えるのだろうか。みんなを信じきれなかったから、あの言葉を少しでも信じてしまったから、こうして俺は、ここに一人で転がっている。
昼間の温もりは消え、夜の地面の冷たさはしんとして体温を奪っていく。ドクドクとなる心臓と、情けなく掠れた呼吸音が煩かった。
走り通しだったせいか、泣きすぎたせいか、頭がぼうっとしてきた。
目を閉じる。
もうこのまま死んでしまっても良いかもしれない。いや……死ぬべきだ。魔物や魔法、戦争が当たり前の世界で、魔法が使えず、ろくに鍛えていない、凶兆の証だと忌み嫌われている異世界人がひとりで生き残る術などない。惨たらしく殺されるか、何らか良くないことに利用されて無様に死ぬかくらいしか道はない。
世界は、魔王を倒して平和になったのだ。誰かの迷惑になるくらいなら、このまま凍死か魔物に食べられて死のう。
冷えた感触に身を委ね始めた頃だった。ガサガサと草を踏み分ける音と、布が擦れる音がする。何か来たのだ、とぼんやり思っていると、背後に人が立ったようだった。
「貴方、大丈夫?」
二、三度肩を叩かれる。今は放っておいてほしくて、聞こえないふりをした。
「生きているわよね。毒や魔法に侵されているのかしら……返事はできる?」
声からして相手は女性で、一人のようだった。女性の探検者も珍しくはないが、こんな夜に、しかも転がっている怪しげな男に声をかけるのは珍しい。余程強いか世間知らずかのどちらかだろう。
そうやって思考を飛ばしていると、上空に何かの気配が現れた。急速にこちらに近付いているのに気付いて、咄嗟に立ち上がって隠し持っていたナイフを投げた。
「ギャッ」と大きな鳴き声。木の枝を折る音がして、地面に柔らかいものが落ちた音がした。
はっとして振り向くと、そこに居たのはフードを被った女性だった。顔も服装もフードとマントに隠れてよくは見えないが、場違いなくらい、どこか優雅な雰囲気を纏っている。
「……ありがとう、助けられてしまったわね」
彼女は立ち上がると、形の良い唇に笑顔を浮かべた。
「……魔王が倒されたからって、まだ魔物はそこら中にいるし、盗賊なんかも出るんだ。特に夜は一人で歩くのは危ない」
咄嗟に口からそんな言葉が出て、慌てて口を閉じる。もう、ユーシャ達と旅していた頃とは違う。すべてを救い、助ける側だったあの頃とは。
それに端から見れば、さっきまで地面に転がって、彼女の声を聞こえないふりをしていた挙句、キメたセリフを言う、ヤバいやつにしか見えない。
いい感じで流してくれないだろうかと祈りながら様子を窺うと、彼女は「ご忠告ありがとう」と微笑んだ。
「折角だから、助けられたお礼に夕食をご馳走するわ。ちょうどそこに、良さそうな獲物があるし……」
彼女は先程何かが落ちた草むらの方へ行き、それを拾い上げ、こちらに向けた。先程投げナイフに当たったのは、中くらいの鳥型の魔獣のようだった。
「それと、貴方が倒れていた理由も教えてもらわなくっちゃね」
いたずらっぽく微笑む彼女に、俺は内心で肩を落とす。流されてくれなかったか……。
■□
薪を集め終わり、焚き木を組むと、彼女は指先から炎を出した。パチパチと燃え始める炎を見て、俺は懐から出そうとしたマッチを反射的にしまい、ナイフの位置を確認した。
「ありがとう。助かったよ」
「そうしたら、次は料理でもしましょうか」
「じゃあさっきの鳥を捌こうか?」
「できるの?」
「多少の料理経験はあるからな」
「わかったわ。私はスープの用意をするから、終わったら渡してくれるかしら」
俺は渡された料理用ナイフを持ち、彼女の様子を見る。
火をつける時、彼女は躊躇いもせず魔法を使った。彼女は、おそらく魔国の貴族だ。彼女の身なりや雰囲気からして、魔法を使わざるをえない聖国側の貧民ではないだろう。
俺が転生してきた異世界は、聖国と魔国の二つの王国に分かれていた。この二つの国は、魔力に対する価値観の違いを根底に、長年戦争を続けているそうだ。
この世界では、空気中の魔力を体の中に取り込み、それを発することで魔法が使える……らしいのだが、この「魔力を体の中に取り込む」ことを聖国の、特に身分の高い者たちは嫌う。聖国においてはなるべく魔力を使わない生活が良しとされており、魔法があるのに王宮では炭などを用いて火を起こす。
俺の持っているマッチもそうだ。火を起こす仕組みは元の世界とは違うようだが、自分で魔力を使うことなく火を起こせる道具として中流階級で大人気らしい。
聖国には「魔力は穢れ」という価値観があり、なるべく魔力を使わない、イコール、聖なる者という価値観が根づき、聖なる者ほど権力を得ている。
逆に魔国では魔力が高い者が権力を得ており、魔力に頼った生活が営まれている。
魔国の貴族だった場合、魔王を殺した勇者達に恨みを抱いている可能性が高い。ここは聖国王城にも近く、魔国の者が易々と来ることのできる場所じゃない。
この女の目的は何だ。
「綺麗に捌けてるのね」
「……ああ」
半ば上の空で捌いていたので若干不格好になってしまったが、彼女は気にしない様子で鍋に肉を入れた。
気付けば香辛料の良い香りが漂ってきていて、くぅ、と小さく腹が鳴った。
それに気付いたのか彼女は小さく笑う。
「もう少しでできるわ」
見ていた限り、怪しげな物は入れていなかった。しかし、脳裏によぎるのは昼間の光景だ。様子のおかしかった仲間たち……いや、いつまで期待しているんだ。あれは彼らの本心だったのかもしれないのだから。
「できたわよ。どうぞ」
差し出された椀を受け取る。
「食べないのかしら」
「……いや……」
「まあ、流石に信じられないわよね。こんな怪しげな女……」
そう言いながら彼女はフードを取った。それを見た瞬間、俺は飛び退き、ナイフを構える。
「そのツノ……お前、魔人だな」
溢れんばかりの艷やかな銀色の髪に、宝石のような赤い瞳を持つ、美しい女だった。しかし、その側頭部からは山羊のようなツノが生えており、ツノには花のような意匠が掘り込まれていて、まるで芸術品のようであった。
魔国には自らのツノや翼、鱗などに意匠を施し、それで身分を表す血筋があると聞く。彼女の掘り込みの精密さから察するに、おそらく相当身分が高い。
震えそうになる身体に気付かないふりをする。俺一人でこいつを殺せる可能性は、限りなくゼロに近い。俺のことを知って近付いてきたなら尚更だ。
彼女は試すように俺の目をじっと見ている。彼女の赤い唇が小さく開き、その端が小さく歪んだ。
「……貴方、勇者パーティーから追放された男ね?」
小さく唇が戦慄いた。こいつは、俺のことを知っている。
「ねえ、勇者たちに復讐したくない?」
想定外の言葉に目を見開く。
復讐。そんなこと、考えたことすらない。
「勝手に命がけの旅に参加させた挙句、自分の望む結果が得られなかったら、ポイ、なんて。酷い話よね」
可笑しそうに息を吐いた女が、にっこりと笑ってこちらを見る。心臓が、冷えた。
俺が追放されたのは城門の中の、王城の前。こいつが魔国側であるならば、どうやって知った?
ナイフを握り直すと、女が距離を詰めてきた。
反応するより先に、片手でナイフを持った手を押さえられ、骨が軋む。
片方の手が頬に添えられ、美しい顔が眼前に迫った。
「私の目を見て」
彼女の赤い瞳が僅かに発光しているようだった。必死に抵抗するも、腕はピクリとも動かない。
――魔法だ。
数秒が、随分と長く感じた。
不意に彼女が目を閉じる。つまらなそうに手を離すと、大きく息を吐いた。
「……異世界人に魔法が効かないのって本当だったのね」
身体を引き離し、体制を立て直す。彼女は唇を尖らせて小さく呟いた。
「魅了がかかれば手間がかからなかったのに」
「……お前は誰だ」
長い銀髪が、月光を反射してキラキラと光っているようだった。胸元に手を当て、赤色の瞳がこちらに向けられる。
「私はベルロード」
彼女は片方の唇を吊り上げると、長い銀髪を払った。
「貴方たちが殺した、魔王の娘よ」




