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そして、勇者は世界を救った。  作者: 雨鷽
三章 誘惑の奴隷 / 世界の外れの私達
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七節 立場

 屋敷に着き、扉を開ける。

 掃除していたクラルハイトは、俺を見て目を細めた。


「これはまた……カナト様、とりあえず浴室へ行きましょうか」


 クラルハイトは俺の背に手を添えるようにして歩き始める。


「随分と汚れてらっしゃいますね」


「ああ……」


 こびりついた血の匂いが鼻につく。

 後ろから「クラルハイト」とベルロードが呼び止めるのが聞こえる。


「話があるの」


「承知いたしました」


 そう言った瞬間、足音が増えた。

 クラルハイトが二人に増えたのだ。

 一人は俺の後ろにいたまま、もう一人はベルロードの方に歩いて行った。


「行きましょう、カナト様」


 クラルハイトがそっと背を押す。

 しばらく歩いていると、耳元に気配が近づいてきて、低く囁かれた。


「……一緒に入りましょうか?」


 その言葉にたたらを踏む。じとりと振り向くと、クラルハイトはおかしそうに微笑んでいた。


「……風呂くらい自分でやれるから……」


■□

 

 カナトの背が見えなくなったのを確認して、ベルロードは口を開いた。


「コニーイア周辺で特待生に遭ったわ」


「特待生、というと……学園の?」


 クラルハイトは少しだけ眉を上げる。


「ええ。非常時政務執行部に報告してくれるかしら」


「もちろん……ですが、すぐに報告してよろしいのですか?」


「……構わないわ。タシオの対処を急ぐ。そろそろ聖国による被害が出かねない」


「畏まりました。臨時執政官として、対応するよう要請します」


 クラルハイトは一礼し、部屋から出て行った。ベルロードはそれを見て少しだけ息を吐く。


 今回の遭遇で疑心が強まった。

 聖国は、本気で魔国を滅ぼす気だ。


「……急がないと」


 ベルロードはヒールの音を鳴らしながら廊下を歩く。

 静かな屋敷に、その音だけが響いていた。


■□


「湯加減はいかがでしょうか」


 頭上に浮かぶ水の塊から温い水が降る。


 結局、俺はクラルハイトの申し出を断れなかった。

 ……こびりついた肉の感覚に、もう触れたくなかったのだ。


「……大丈夫」


 床に、薄桃色の水が流れていく。

 そっと頭に指が触れ、髪を梳くように動くのを感じる。


 ――クロン。

 口がそう動いたのに気付いて、唇を噛んだ。


 端が薄く曇った鏡に、ぐちゃぐちゃになった俺の顔が映っている。


 何か、細かいものが流れていくのを、追って。それが排水口に消えていくのを見届けた。


「下を向くと、目に水が入ってしまいますよ」


 優しく額を押さえながら前を向かされる。鏡はもう全部曇りきっていた。


 頬を伝って水がとめどなく流れていく。下ろした視界の端で、水はもう透明になった。


「拭きますね」


 柔らかくたたくように頭にタオルが当てられる。布の感触が背中に降りて、薄く鳥肌が立った。


「あとは、自分でできるから」


 すっと腕が離れて、膝の上にタオルが置かれた。


「それでは、廊下でお待ちしておりますので」


 離れていく気配に、膝の上のタオルから顔を上げられなかったが「クラルハイト」と声を出す。

 掠れた声が浴室に落ちる。


 クラルハイトは振り向いて「はい」と小さく首を傾けた。


「……ごめん」


「いいえ。……お役に立てて、なによりでございます」


 一礼して歩き去っていくクラルハイトを見送ってから、軽く体を拭いて立ち上がる。


 服を着て廊下を出ると、言葉通りにクラルハイトが立っていた。


 歩き出したクラルハイトの後を追う。

 柔らかい日差しが差している。

 空は薄い青色で、どこかで小鳥が鳴いていた。


「カナト様、今、何をお考えに?」


 クラルハイトは前を向いたままだ。


「……ユーシャ達は……今何をしてるんだろうって」


 ぼんやりと、クラルハイトの伸びた背を眺める。


「もし、アイツらがこれを黙認しているなら、指揮、してるなら……」


 ……俺は、どうすればいいのだろうか。


「ユーシャ様達のこと、知りたいですか?」


「ああ」


 頷いて、その言葉を理解した。


 日が陰って、廊下に影が落ちる。

 振り向いたクラルハイトは、いつも通りの笑顔を浮かべていた。


「どこまでお教えすればよいでしょうか」


「……どこまで、って……」


 クラルハイトは足を止めず、淡々と口を開いた。


「ユーシャ様とクロン様はそれぞれ聖国内の魔物討伐を行っております。ユララ様は各地で癒しを――」


「ちょ、ちょっと待て!」


 咄嗟に遮るとクラルハイトはぴたりと言葉を止めた。


 つらつらと並べられた言葉をまだ理解できていない。


「……お前それ、本当か……?」


「おや、カナト様はボクを信じてくださらないのですか。悲しいですね」


 クラルハイトは笑顔のまま言い放つ。


 勇者達の情報は、俺にとって何かの対価になるほど価値がある。

 現に俺は、スフィス領でベルロードと取引きした。


「……そんな簡単に、教えていいのかよ」


「ベルロード様との約束があるから、でしょうか」


 にっこりと笑うクラルハイト。俺がベルロードと取引きした場にこいつはいなかったはずだ。

 ……どこかで、見ていたのか?


「ボクには、カナト様とベルロード様の約束に何の関係もありません」


「でも、お前はベルロードの執事だろ?」


「ボクは魔王からベルロード様の世話をするように命じられただけです」


「……味方じゃないってことか?」


 クラルハイトは悲しげに首を振った。


「そんな目で見ないでください。ボクも、見ている方向は変わりませんから」


 客室に着き、クラルハイトがドアを開けた。


「昼食はどうされますか?」


「……いらない」


 部屋の中に入ると、クラルハイトはにっこりと微笑んだ。


「かしこまりました。軽食を用意しておきますので、もし必要でしたらお召し上がりください」


 キィ、と軋みながらドアが閉まる。


 そしてようやく、手の先が冷え切っているのに気付いた。

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