七節 立場
屋敷に着き、扉を開ける。
掃除していたクラルハイトは、俺を見て目を細めた。
「これはまた……カナト様、とりあえず浴室へ行きましょうか」
クラルハイトは俺の背に手を添えるようにして歩き始める。
「随分と汚れてらっしゃいますね」
「ああ……」
こびりついた血の匂いが鼻につく。
後ろから「クラルハイト」とベルロードが呼び止めるのが聞こえる。
「話があるの」
「承知いたしました」
そう言った瞬間、足音が増えた。
クラルハイトが二人に増えたのだ。
一人は俺の後ろにいたまま、もう一人はベルロードの方に歩いて行った。
「行きましょう、カナト様」
クラルハイトがそっと背を押す。
しばらく歩いていると、耳元に気配が近づいてきて、低く囁かれた。
「……一緒に入りましょうか?」
その言葉にたたらを踏む。じとりと振り向くと、クラルハイトはおかしそうに微笑んでいた。
「……風呂くらい自分でやれるから……」
■□
カナトの背が見えなくなったのを確認して、ベルロードは口を開いた。
「コニーイア周辺で特待生に遭ったわ」
「特待生、というと……学園の?」
クラルハイトは少しだけ眉を上げる。
「ええ。非常時政務執行部に報告してくれるかしら」
「もちろん……ですが、すぐに報告してよろしいのですか?」
「……構わないわ。タシオの対処を急ぐ。そろそろ聖国による被害が出かねない」
「畏まりました。臨時執政官として、対応するよう要請します」
クラルハイトは一礼し、部屋から出て行った。ベルロードはそれを見て少しだけ息を吐く。
今回の遭遇で疑心が強まった。
聖国は、本気で魔国を滅ぼす気だ。
「……急がないと」
ベルロードはヒールの音を鳴らしながら廊下を歩く。
静かな屋敷に、その音だけが響いていた。
■□
「湯加減はいかがでしょうか」
頭上に浮かぶ水の塊から温い水が降る。
結局、俺はクラルハイトの申し出を断れなかった。
……こびりついた肉の感覚に、もう触れたくなかったのだ。
「……大丈夫」
床に、薄桃色の水が流れていく。
そっと頭に指が触れ、髪を梳くように動くのを感じる。
――クロン。
口がそう動いたのに気付いて、唇を噛んだ。
端が薄く曇った鏡に、ぐちゃぐちゃになった俺の顔が映っている。
何か、細かいものが流れていくのを、追って。それが排水口に消えていくのを見届けた。
「下を向くと、目に水が入ってしまいますよ」
優しく額を押さえながら前を向かされる。鏡はもう全部曇りきっていた。
頬を伝って水がとめどなく流れていく。下ろした視界の端で、水はもう透明になった。
「拭きますね」
柔らかくたたくように頭にタオルが当てられる。布の感触が背中に降りて、薄く鳥肌が立った。
「あとは、自分でできるから」
すっと腕が離れて、膝の上にタオルが置かれた。
「それでは、廊下でお待ちしておりますので」
離れていく気配に、膝の上のタオルから顔を上げられなかったが「クラルハイト」と声を出す。
掠れた声が浴室に落ちる。
クラルハイトは振り向いて「はい」と小さく首を傾けた。
「……ごめん」
「いいえ。……お役に立てて、なによりでございます」
一礼して歩き去っていくクラルハイトを見送ってから、軽く体を拭いて立ち上がる。
服を着て廊下を出ると、言葉通りにクラルハイトが立っていた。
歩き出したクラルハイトの後を追う。
柔らかい日差しが差している。
空は薄い青色で、どこかで小鳥が鳴いていた。
「カナト様、今、何をお考えに?」
クラルハイトは前を向いたままだ。
「……ユーシャ達は……今何をしてるんだろうって」
ぼんやりと、クラルハイトの伸びた背を眺める。
「もし、アイツらがこれを黙認しているなら、指揮、してるなら……」
……俺は、どうすればいいのだろうか。
「ユーシャ様達のこと、知りたいですか?」
「ああ」
頷いて、その言葉を理解した。
日が陰って、廊下に影が落ちる。
振り向いたクラルハイトは、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
「どこまでお教えすればよいでしょうか」
「……どこまで、って……」
クラルハイトは足を止めず、淡々と口を開いた。
「ユーシャ様とクロン様はそれぞれ聖国内の魔物討伐を行っております。ユララ様は各地で癒しを――」
「ちょ、ちょっと待て!」
咄嗟に遮るとクラルハイトはぴたりと言葉を止めた。
つらつらと並べられた言葉をまだ理解できていない。
「……お前それ、本当か……?」
「おや、カナト様はボクを信じてくださらないのですか。悲しいですね」
クラルハイトは笑顔のまま言い放つ。
勇者達の情報は、俺にとって何かの対価になるほど価値がある。
現に俺は、スフィス領でベルロードと取引きした。
「……そんな簡単に、教えていいのかよ」
「ベルロード様との約束があるから、でしょうか」
にっこりと笑うクラルハイト。俺がベルロードと取引きした場にこいつはいなかったはずだ。
……どこかで、見ていたのか?
「ボクには、カナト様とベルロード様の約束に何の関係もありません」
「でも、お前はベルロードの執事だろ?」
「ボクは魔王からベルロード様の世話をするように命じられただけです」
「……味方じゃないってことか?」
クラルハイトは悲しげに首を振った。
「そんな目で見ないでください。ボクも、見ている方向は変わりませんから」
客室に着き、クラルハイトがドアを開けた。
「昼食はどうされますか?」
「……いらない」
部屋の中に入ると、クラルハイトはにっこりと微笑んだ。
「かしこまりました。軽食を用意しておきますので、もし必要でしたらお召し上がりください」
キィ、と軋みながらドアが閉まる。
そしてようやく、手の先が冷え切っているのに気付いた。
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