一節 とある記憶
「お兄ちゃん、あれ、見てください!」
クロンのはしゃいだ声がする。指さす方向を見ると、すぐ横の水路を船が通っていった。
「町の中で舟が動いているなんて初めて見ました」
この町では張り巡らされた水路の上を舟で行き来するらしい。海に近い港町だからだろうか。
元の世界にも似たような街があったなと一瞬頭に過ったが、クロンにバレないように笑顔で隠した。
「追いかけてみるか?」
クロンがキラキラした瞳で振り向いたが、一瞬で口元がきゅっと引き結ばれた。
彼女の瞳が左右に動いたのを見て、俺も身を固くする。
クロンが俺の手を取り、歩き出した。
ゆるく手を繋いだまま薄暗い細道に入る。
喧騒が少しずつ遠のいていって、二人分の足音だけが反響する。生臭く湿った潮風が吹き抜けていった。
「……すみません、憲兵がこちらを見ていました」
低く抑えたクロンの声に後ろを振り向く。
今のところ、憲兵は追ってきてはいないようだ。
「謝ることじゃない。むしろ、ありがとうな」
クロンは様子を伺ってから道に出る。
正面に海と砂浜が広がる、人通りの少ない裏通りのようだ。
「……久しぶりのお兄ちゃんとの時間だったのですが」
繋がっていた指先がきゅっと握られる。
落とされた声は波の音にかき消されそうなほどだった。
俺もクロンも、町ではあまり歓迎されない。
クロンは特に憲兵や貴族といった有力者から、町に入るなと拒まれることがあるほどだ。
近くに砂浜へ降りる階段があった。
俺はクロンの手を握り直すと、海を指差した。
「クロン、あっちに行くぞ」
まだ少しだけしょぼくれている彼女の手を引きながら砂浜に降り立ち、周囲を見渡す。
そして、太陽の光を受けてキラキラ輝く鱗のようなものを見つけた。
「クロン、これ、なんだろうな」
クロンは顔を上げ、俺の手のひらに乗る鱗をじっと見た。
それは手のひらからはみ出るくらいの大きさで、光の加減によって色を変える。
「魚……でしょうか」
「鱗の破片でこんなに大きいんだ。持ち主はどんな大きさかな」
「この辺りに海の主がいると、先ほど聞こえました」
「海の主! すげえな……もしかしたら、そいつのかも」
「そうですね。……そうだったら、いいです」
クロンは小さく微笑んだ。それに笑い返して、俺は歩き始める。
クロンが俺を見上げる。
大きな瞳が陽を浴びて深い藍色に輝いている。彼女は口元に僅かな微笑を浮かべると、きょろきょろと辺りを見渡し始めた。
「……お兄ちゃん、あちらに何か光るものを発見しました」
「行ってみるか!」
砂浜に足を取られながら歩く。
クロンを横目で見ると、彼女の髪飾りのリボンが暢気に揺れていた。
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甲高い鳥の声に、はっと目蓋を開く。
また夢だった。
性懲りもなく旅の記憶ばかり思い出してしまって、浅い呼吸を何度か繰り返す。
身体中が思い出したように鈍く痛み始めた。
咄嗟にユララの回復薬を探して、やめる。残り本数は三本。まだ我慢できる範疇だ。
服を着替えるついでに確認したが、出血はおさまっていたので数日もすれば治るだろう。
それでも着替えるだけで疲労を感じて、椅子に座る。
魔法が効かないことでいくらか役に立つこともあったが、回復魔法までも効かないと、足を引っ張ることの方が多かった。
ぼんやりと窓の外を見ていると、ドアがノックされた。
「おはようございます、カナト様。起きていらっしゃいますか?」
くぐもった声はクラルハイトのものだ。
ドアを開けると、相変わらず怪しい笑顔を浮かべてそこに立っていた。
背丈は昨日と同じように俺の胸くらいの高さくらいしかない。
「体調はいかがでしょうか?」
「平気だ。クラルハイトこそ、怪我とかないか?」
「ご心配ありがとうございます。カナト様のお陰で無傷です」
そう言って、クラルハイトは小さく頭を下げた。
「朝食は食堂でよろしいでしょうか? こちらにお持ちすることもできますが」
「食堂に行くよ」
そう返事をし、昨日と同じようにクラルハイトに連れられて食堂へ行く。
「……そういえば、今日も小さいな」
「おや。カナト様は長身の姿がお好みですか?」
「好み……いや、どっちでも良いけど……」
そんな軽口を叩きながら食堂へ入る。
朝日に照らされるそこは、昨日同様整然と整えられていたが、ベルロードの姿はなかった。
「ベルロード様は既に朝食をとられました。代わりに、伝言を預かっております」
クラルハイトは端の席を引くとこちらを向いた。
「本日は療養に努めるように……とのことです」
「……それだけか? 何かしておくこととか、これはするな、とか」
「特には。ですが、出歩かず屋敷の中にいるのが良いかと」
そう言ってクラルハイトは微笑む。
傷が痛む身としてはありがたいが、良いのだろうか。
「カナト様には大役が待っていますから。しっかりと傷を治してください」
「……わかった」
椅子に座ると、クラルハイトがティーカップにお茶を注いだ。
「本日はパンと、ケラス豚のベーコン、クカレク鶏の目玉焼きです。カナト様、お好みの目玉焼きの焼き加減はありますか?」
「……堅めかな」
「かしこまりました」
そう言ってクラルハイトはキッチンへ向かった。




