11
「一応聞いておくんだけど、やっぱりあれを捨てたら佳奈子の記憶が消えてたの?」
彼は何も答えずに質問を返した。少し考え込んだのか、佳奈子の次の言葉が聞こえるまでに大きなあくびをかけるほどの時間を要した。
「そうだね。消えていたよ」
「そっか。じゃあやっぱりこの選択でいいや」
さらに広く夜空を眺めるために歩き出し、近くの階段を降りて広い道路にでた。時間がわからないから何ともいえないが、不自然なほどに人も車も見当たらない。
大きく息を吸い、肺を空気で満たす。そして口を大きく開いて話し出した。
「俺はあの水をただ残しとくよ。たとえ菌だらけで汚くなっても、自然に減っていったとしても、不意に倒してこぼれても、俺はそれを受け入れることにする」
たとえその選択が後悔に繋がっても。その水の存在を鬱陶しく感じたとしても。何も変わらず、何も消えず、愛惜し続けることになるとしても。
「そっかー。そうするんだね」
「うん」
彼女も彼も、続きの言葉を発することは無かった。これ以上の会話の必要はないと感じたのだろう。
星空から目を離し、暗くも明るい道を進み続ける。建物の光や街灯によって、注意力を発動する必要も感じないほど鮮明に世界が見えた。
少し変な匂いがする。きっと日中に雨が降ったのだろう。今は降っていないが地面が濡れおり、コンクリートの凸凹が光を反射している。
「ペトリコールっていうんだっけ?」
あんまり心地のいい匂いでは無かった。鼻をつまんでしまいたいほどでもないが、十円かけて取り除けるのなら取り除きたい程度の不快感。あたりまえにお金をかけても無駄なため、そのままにしておくことにした。
雨は降る。雨が降った後は、少し汚く見える。たとえ大きな虹が綺麗でも、地面はジメジメし、ペトリコールが香る。いずれ虹もジメジメもペトリコールもなくなる。日光に温められて適度に乾燥した、ありきたりな風景が出来上がる。そしてまたいつか雨がふる。その繰り返し。それがこの世界。この人生。それを受け入れることに抵抗を少なからず感じたが、諦めることにした。




