3話
「はぁ~疲れた……久しぶりに走ったもんな」
双樹は片手に牛乳パックを抱えて帰路に着く。
日頃の運動不足がたたってあと少しの距離で限界が来てしまった。
暖かい風が頬を撫でる。
ボーっとしてまだらの桃色を視界に映しながら、履きなれたスニーカーで踏み込んだ。
葵はきっと今ごろ、家事をしている母親の周りをついて回っているところだろう。好奇心旺盛な十一も離れた弟は、双樹の退屈な毎日をなんだかんだと彩ってくれている。
「……ん?」
また一歩踏み出そうとして、双樹は異変を感じ取った。
「な、なんだ……?」
地面が揺れている。
「地震?」
ドンッッ‼‼‼
「なっ⁉ う、うわっ⁉」
その瞬間、突如として先ほどとは比べ物にならない揺れが襲い、後方で爆音が鳴り響いた。双樹は理解も追いつかぬまま地面に手をつく。
重い紙パックがぼとりと転がった。
すぐに音の方向を垣間見れば、はるか遠くの山から烏が飛んでいくのが分かる。そして、その頂きから、ゆっくりと緑色の巨大な頭が覗いた。
「は……なんだよあれっ」
双樹の声が震える。
あの生き物が何なのか、分かってはいる。それでも本物を目の前にすると、信じられなかった。
「……セルファだ」
町のあちこちからサイレンが鳴り響く。遠くの空から戦闘機やヘリが飛んできている。
双樹はそれから目を逸らせないでいた。
すると、ギョロリとした気持ち悪い目がこちらを向いた。
「ひっ……!」
巨大生物と、目が合った気がした。
その衝撃で双樹は我に返って、家にいる母と弟のことを思い出した。もしかしたら先ほどの揺れで家のどこかが崩れたかもしれない。
近隣の家も騒ぎに気付いて人が出てきている。
早く家族を連れて避難しなければ、と双樹はまた走り出した。さっきのあの瞬間が後を引いて、まだ心臓がドクドクと脈打っている。
けたたましい警報に、人々の怒号、遠くの爆発音が日常を切り離す。
桜の木が、見えた。
我が家が、見えた。
ヒュンッ、と大きな影が、双樹の頭上を通り過ぎた。
「……え?」
慣れ親しんだ日本家屋が、目の前で巨大な岩に押しつぶされた。
「…………ありえない」
足は地面から離れず、全身から血の気が引いていく。
時間が止まった。
思考が止まった。
双樹は震える手で顔を押さえる。
その間にも大きな音を立てて何かが周囲に降ってきている。
「だってあそこには、母さんと、葵が……っ!」
そんなはずはない。双樹は最悪を否定するために駆け出した。
「違う…………っ‼」
――さっきまで一緒だったんだ。
「違う……っ‼」
――二人が、
「違うっ‼」
――おかえりって、
「違うっ‼‼‼」
――言ってくれるはず。
「……違うんだ、これは、夢だ」
壊れたドア。暗い廊下。家の中だけが、静か。
行き先を阻む岩先の奥、崩れた家具の山に投げかける。
「か、かあさん……あおい……」
震える声で双樹は二人を呼ぶ。
だが音にならなかった呼吸が喉を詰まらせた。
大きく見開かれた目が、ある一点を見つめる。
「あ、……ああああっ‼‼」
真っ赤な血が、瓦礫の下からじわりと溢れ出した。
双樹の肺は押しつぶされ、喉は焼かれる。
血だまりが、双樹に擦り寄る。
「っ、い、いやだ……っきっと生きてる、死んでない、まだ、助かる……っ」
ふらつきながら廊下を進み、冷たい石に手をかける。
液体が足元を濡らす。
「ふっ……‼ う、ごけぇっ‼ 動けよ……っ‼ 動けよ‼‼」
双樹が全身の力を込めて押しても、ビクともしない。それどころか、血で足を滑らせ、ガクンと膝が崩れる。
ドンッ‼とまた近くで大きな音がして、遠くに悲鳴が聞こえる。
「っ、くそっ‼ なんでだよ‼ なんでっ……‼」
叩いても、叩いても、拳から鮮血が流れ落ちるだけ。
「っおい‼ 双樹のにいちゃん何してるっ‼」
その時、開いたままだった玄関から、近所の男性が双樹を見つけた。
緊迫した状況にも関わらず、少しも動こうとしない双樹にもう一度声をかけようとして、男はハッとした。潰れた家内に、血に濡れて座り込む双樹を見て、全てを理解したようだった。
「っ双樹‼‼ お前だけでも逃げるんだっ‼ ここに居たらお前も死ぬ‼」
それでも、双樹はへたりと座り込んだまま。
「家族を、置いて行けない……だったら、俺も、ここで……」
「何馬鹿な事言ってるんだっ‼‼ ほら立てっ‼ 逃げるぞ‼」
「い、いやだ、離してっ‼‼ 母さんっ……‼ 葵っ……‼」
男はすぐさま、無理やりにでも双樹の脇を抱きかかえて家から引きずり出した。
必死に抵抗する双樹を停めていた車に押し込んで、自身も運転席に乗り込む。
アクセルが踏み込まれた瞬間、車窓から見える双樹の家がガラガラと崩れて、二人のいる入口は無惨にも閉ざされた。
「っ、ふっ、うう……ずっ……っ」
車は火の上がる町を駆け抜けていく。
男は双樹が泣き止むまで一言も発さず、避難所に着いてからは身寄りのない双樹を側で見守っていた。




