6.祈りの代償
「せ、セラっ――!」
霧の中で魔物と対峙していたアシュルが、視界の端にセラの倒れる姿を捉えた。
その刹那、鋭い戦意が揺らいだ。意識がわずかに逸れた――たったそれだけの隙。
魔物が唸り声と共に、地を蹴った。
「ちっ……!」
アシュルが再び結界を張ろうとするより早く、異形の爪が彼を薙ぎ払う。
槍が軋み、身体が空を舞う。横転するように宙を回り、石壁へと叩きつけられた。
衝撃音と共に、土埃が舞い上がる。
まるで大地そのものが、怒りの咆哮を上げたかのようだった。
「アシュルっ!!」
セラは、叫んでいた。自分でも気づかぬうちに、全身が震え、目の奥が熱くなっていた。
痛みはなかった。倒れ込んだはずの身体が、いつの間にか立ち上がっている。
足が震え、声がかすれていたが、それでも彼女は叫んだ。
「逃げて! 皆、早くっ!!」
(私だってノクスの民の一人だ。私にだって村のみんなを守る義務があるんだ!)
人々の耳に届いたかはわからない。だがセラの目には、恐怖に凍りついた村人たちが、教会へと走り出す姿が映っていた。
そのときだった。
異形が、頭上の教会を見据え、低く唸った。
次の瞬間、その巨体が教会へ向けて全力で駆け出す。
轟く足音と、地響き。濃霧の中を突き進む黒い影。
そして――その進路の、まさにど真ん中に、セラがいた。
まだ立ち上がりきれていない。身をかわす余裕もない。
(来る……)
重く、鈍く、冷たい塊が、自分に向かって真っ直ぐ突っ込んでくる。
(アシュルの結界も……もうない……)
誰も、間に合わない。逃げられない。
けれど、それでも。
(お願い……私が引き付けてるうちに……!)
胸の奥にある、名も知らぬ誰かへの祈り。届くはずもない助けを、ただ願っていた。
セラは、胸元の首飾りをぎゅっと握りしめた。
それは、物心つく前から身に着けていた唯一のもの。
誰に贈られたのかもわからない。けれど――いつも、そこには確かな温もりがあった。
次の瞬間。
まばゆい光が、爆ぜた。
空間がひび割れるように眩しく輝き、霧の帳が切り裂かれていく。
魔物がその光に正面から突っ込んだ。
断末魔のような凄まじい呻き声が広場に響き渡る。
光は柱のようにセラの周囲へ立ち上がり、まるで“守る意志”そのもののように、静かに、しかし絶対的な力で広がっていく。
魔物の影がその中で軋み、崩れはじめる。
触手のような腕が解け、歪んだ体躯が形を保てなくなる。
異形は、ゆっくりと、確実に、瘴気ごと溶けるようにして消えていった。
やがて、音もなく、その姿は地面に消えた。
セラはその場に、崩れるように座り込んだ。
肺が空気を求めて喘ぎ、足の感覚が遠のく。
手も、指も、震えて止まらない。
けれど――目だけは、アシュルの方を見ていた。
視界の奥、倒れていた瓦礫の中から、彼がゆっくりと身を起こす。
額には血がにじみ、唇がかすかに歪んでいる。
その瞳が、霧の中でひとり立ち尽くすセラをとらえる。
まず、ごくかすかに眉を緩めた。
それは、彼女が無事だったことへの安堵の色――けれど、それはほんの一瞬だった。
すぐにその表情は曇り、視線がわずかに揺れる。
どこか遠くを見るような目つきに変わり、拳が気づかぬうちに固く握られる。
声はない。ただ、静かに、ゆっくりとセラに視線を戻す。
そして、目を細めるようにして、ほんの少し頷いた。
それは、叱責でも称賛でもない。
ただ、彼女の存在を確かに受け止めるような、穏やかなまなざしだった。
セラはその視線を正面から受け止め、理由もわからないまま胸が締めつけられるような感覚に包まれた。
それは、言葉にならない“何か”だった。
恐怖でも、喜びでもない。
言葉にはならない、名前もつけられない、けれど確かにそこに在る“なにか”が、彼女の内側を静かに揺らしていた。
その時――
教会の高窓、その奥の暗がり。
ひとつの影が、静かにその光景を見下ろしていた。
動かぬ体。沈黙の気配。
だが、瞳だけが、すべてを見透かすように鋭く光っていた。
それは、かつてセラの母を看取った男。
今や“神の顔”を纏い、“神の意志”を代弁する者。
その視線は、何かを確信したように深く、そして冷たかった。