3.作られた奇跡
昼下がり。雲が低く垂れこめ、空が少しずつ灰色に染まっていく。
そしてまた、霧が現れた。
それは人の背丈より低く、静かに村の石畳を這うように広がっていた。
けれど、見慣れてしまった村人たちの誰もが気づいていた。
——これは、“本物”ではない。
それでも、教会の鐘は鳴る。
まるで待っていたかのように。
そこへ現れたのは、白馬に乗った貴族の若者だった。
「恐れることはありません!」
高らかな声が、広場に響く。
リオネル・アレスト。
王都アレスト家の嫡子であり、教会の推薦を受けてこの地に派遣された監察官だった。
白金の装束に、聖紋の入った短杖。背後には従者と騎士団を従えていた。
「我が祈りにより、この霧を打ち払わん!」
彼が手を天に掲げると、まるでそれに応えるように風が起こる。
濁った霧はみるみるうちに晴れていき、数秒のうちに地面の石が見えるほどになる。
「おお……」
誰かが呟き、他の者たちが互いの顔を見合わせる。
その顔には、困惑と恐れの色が浮かんでいた。
拍手は起こらない。ただ、戸惑いのような静けさが広場に広がった。
「ご覧いただけただろうか!」
リオネルは、芝居じみた所作で広場の中心へと歩み出た。
「これはまさしく、神の奇跡。
長年この地を悩ませてきた瘴気も、神の使徒たる我らの手により、このように祓うことができる!」
セラは、村の外れの石壁の影から、その光景を見つめていた。
隣にはアシュル。彼は槍を背に、腕を組んで黙っている。
「……なんでわざわざ演説までするの?」
セラがそっと呟く。
「教会が流した噂を、“正当化”したいんだろう」
アシュルが、視線を外さずに返す。
「ノクスの民が、瘴気を操っている。
それを自分たちで祓って“恩を売っている”……そんな話を王都で流してる」
「ひどい……そんなの、誰が……」
「教会が。
そして、あいつがその“証人”になるつもりなんだ」
広場の演説は続いていた。
「聞け、民よ! これからは教会が、この地を守護する。
瘴気を祓う力は、もはや“闇の民”に頼る必要はない!」
リオネルは更に声を張った。
「この村に瘴気が満ちるのは、ノクスの民が故意に起こしていると、王都でも囁かれている!
神に背を向ける民が、瘴気を祓うふりをして、民を欺いているのだ!
おお、愚かなる信仰よ! 盲信よ! 貴様らはまさに蛇に喰われた羊だ!」
その言葉に、セラの胸がざわりと揺れる。
闇の民——ノクスの民のことを、そう呼んだ。
「ノクスの民は……誰かを騙してなんかいないのに」
セラの指が、無意識に胸元の首飾りを握っていた。
アシュルは微かに鼻で笑った。
「奴らにとっては、騙していようがいまいが関係ない。
自分たちの正しさを見せつける道具が、ここにあるってだけだ」
広場の向こう、農夫の一人が不満げに呟いた。
「ノクスの民が結界を保ってるのを、俺たちは見てるのにな……」
「口に出すな」
老人が肩を叩いて諫める。顔には明確な恐怖が浮かび、声も震えていた。
周囲の農民たちもまた、互いに目を合わせながら、押し殺した不安を抱えていた。
——だが、それは“理解されている側”の沈黙だった。
そのときだった。
風が止まった。空気が変わった。
霧が、また、動いた。
先ほどのものとは違う。もっと深く、重い。
まるで地の底から立ち昇るような、澱んだ気配。
セラは息を呑んだ。
喉がきゅっと締めつけられるような感覚。視界が暗くなる。
「セラ、下がれ」
アシュルが彼女の前に立つ。
「これは……本物だ」
広場がざわつき始めた。
リオネルが訝しげに振り向き、騎士の一人が叫ぶ。
「霧が……また現れました! 先ほどより濃いものが!」
「馬鹿な、祓ったはず——」
リオネルが声を荒げる。だが、霧は止まらない。
それどころか、明らかに“何かが目を覚ました”ような気配があった。
アシュルの視線は鋭く、霧の中で揺れる影を見据えていた。
「セラ、すぐに村人たちを教会へ避難させろ。瘴気が濃くなる前に、安全な場所へ移動するんだ。」
彼は一歩前に出て、霧の動きを警戒しながらも、動じる様子はなかった。
セラは頷き、慌てる村人たちに声をかけ始める。農民たちも恐怖に震えながらも、アシュルの指示に従い、急いで安全な避難所へと移動し始めた。