1話-⑤ お先真っ暗
どれほどの時間が経っただろうか。
気がつくと、僕は仰向けで地面に倒れていた。
眼前に広がる空はオレンジ色に染まり、徐々に夜の帳が降り始めている。
「はぁ……はぁ……」
荒くなっていた呼吸を、ゆっくりと落ち着かせる。
けれど、胸の奥に張り付いた恐怖は、簡単には消えない。
あまりに過酷な状況で、途中からは逃げること以外何も考えられなかった。そのせいか、記憶すら曖昧だ。
永遠に感じられた地獄だった。結局、技術的な指導は一切なし。
ただ、ひたすらスゥスの振るうナイフを避け続けるだけ。当たりそうになれば、薄皮一枚のところで寸止めされる。そして横からはネユさんの、不必要な茶々が軽い調子で飛んでくる。その繰り返しだった。
死を覚悟した、なんて言葉じゃ生ぬるい。
身の危険を有り余るほど感じたが、僕の魔法は発現しなかった。
「大丈夫ですか?」
ささやくような声が耳に届く。
「う、うん。まぁね……」
僕は力を振り絞って起き上がろうとする。
そのとき、スゥスが手を差し出してくれた。彼女の小さな手を借り、なんとか立ち上がる。
憲兵とはいえ、まさか見た目は普通の少女にここまで追い込まれるとは思わなかった。
「僕を助けたっていうのは本当だったのか……」
ふと思わず、口をついて出る。
「疑われていたんですか?」
スゥスが目尻をピクリと動かし、少し不機嫌そうに反応する。
「ごめん、正直信じてなかった」
だって猛火に囲まれていて、建物が道を塞いでいる絶望的な状況から、僕を助け出したなんて、たとえ屈強な大男だとしても信じられる話じゃない。
だけどあの動きを見れば納得だ。
「そういえばスゥスってどうして僕を助けたの?」
「憲兵ですので」
スゥスは僕の質問に淀み無く答える。
しかしその答えではあまり腑に落ちない。
たしかに憲兵は国外に対しての防衛任務という軍兵の役割だけでなく、国内の秩序を維持する役割も担っている。建前上はゲヌスを助けることも任務の一環だ。
だけど実際にそんなことをする物好きは多くない。
憲兵は、魔導士だけで構成されている。彼らが働くのは魔導士のためだけ。それが当たり前だと思ってた。
「爆発テロが起きて私は現場に駆けつけましたが、すでに火が広範囲に広がっていました。ベルアさんを助けたのは偶然発見したからです。普通の病院では助けられないと思ったのでネユに治療を頼みました」
「へぇ。スゥスとネユさんって、どういう関係なの?」
「あぁ、そういえばネユから何も説明を受けていなかったですね」
スゥスは呆れたように頭を抱え、ちらりとネユさんを睨む。
その視線の先にいたネユさんは僕らの特訓を見飽きたのか、途中からロッキングチェアに揺られて寝息を立てていた。スゥスはため息をついて話し始めた。
「彼女はああ見えても国王直属の魔法学者。いわば要人です。そのため国から憲兵が派遣されて、護衛を付けられます。それが私です」
「ご、護衛……」
物騒な言葉に、思わず戸惑いの声を漏らす。
さっきまでの二人のやりとりを見ていると、とてもそうは思えない。護衛が要人に対してあんなに怒っていいのだろうか。ネユさんも平謝りしていたし。
それに護衛とは、なんらかの脅威から身を守るためにいるはずだ。
「もしかしてネユさんって命を狙われているの?」
「いえ、そういうわけではないですね」
僕の問いに、スゥスは苦笑いを浮かべながら否定した。
「形式上の用心です。常にそばにいなければならないわけではないですし、こうした所用を任されることもあります。ネユが人前で出歩くときに同行する程度です。私自身も護衛の他に、通常の憲兵としての仕事がありますから」
「へぇ、なるほど」
国王直属の魔法学者ともなれば、憲兵が護衛付くようになるのか。聞けば聞くほどネユさんは凄い人らしい。
こんな森の中に住んでいるのも、もしかしたら狙われるリスクを下げるためかもしれない。
そんな話をしていると、ネユさんが目を覚まして、のっそりと起き上がる。
「あぁ、うまくいきませんでしたね」
あくびをしながら呑気そうに立ち上がった。
――途中から寝てただろ。
もちろん僕の身体の心配なんて微塵もしてくれない。
一日中ナイフを持ったスゥスに追いかけられたというのに、傷が一切なかったからだ。
「それにしても、今日目覚めたとは思えないくらいの動きでしたね」
ネユさんが感心したように呟く。
「まぁゲヌスは身体の頑丈さが取り得ですから」
小さな傷なら翌日に治るし、骨折しても1週間もあれば全快する。ゲヌスは身体能力だけではなく、治癒能力も高いのだ。
「うらやましいですねえ」
ネユさんは羨望の目を向けてくる。この人のことだからお世辞なんかではないのだろう。
しかしそんなことは今はどうでもいい。
「それよりもこの特訓のやり方で合ってるんですか?」
僕は眉をひそめて、嘆くように2人に問いかける。
ネユさんが口元に手を当てて、何やら考え込む素振りを見せる。そしてとんでもない事を告げた。
「う~ん、それがよくわからないんですよね」
「えっ!?」
「そもそも魔法が使えないという状況が珍しいですからね。ましてやゲヌスとなれば初めてのことです」
淡々と語るネユさんの言葉に、僕は愕然とする。
「そんな……。でも魔法を説明したときに、僕の手から雷魔法を出しましたよね?」
「あれはあくまで私が補助しただけであって、ベルアさんが使えたわけじゃありません」
ネユさんの言葉に、僕は絶句する。
ここまで先行きが真っ暗だとは思わなかった。
「前例がないことなので、手探りになるっていったじゃないですか」
ネユさんが軽い調子で付け加える。
「そ、それは、そうですけど……」
僕はたどたどしく相槌をうつ。
まさかそれが誰もが正解を知らないという意味だったなんて。膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
あれだけ必死だったというのに、今日の特訓は意味がなかったということだ。
僕は今後への不安に襲われて、深いため息が漏れ出た。