第一節〔手作りの夕暮れ〕
土曜日の昼。目が覚めたのはその頃。人間としてあるまじき、しかし大学生としては至って普通の起床時刻。だからと言って、褒められた時間ではないことは承知している。
外からは既に遊び散らかしている学生たちの声がした。ブラインドを指で少しずらして外を見ると、片手に酒瓶を持った男子たちが五名程度。見た目からして一年生だが、未成年ながら公共の場で違法行為を堂々と出来るのは称賛に値する。
溜息を吐きながら冷蔵庫からバカルティの瓶を取り出す。彼らを見ていて自分も飲みたくなった。どうせ明日は日曜日だし、大事な用事や課題などもない。ならば土曜の昼、飲酒から一日を始めるというのも悪くない。
冷凍庫から冷やしたショットグラスを取り出して橙色のラム酒を注ぐ。コップに注がれると同時に鼻を刺激するような強い匂いが部屋中を満たす。これが悪魔の匂いだと言われても疑う事は無いだろう。
人差し指と親指でショットグラスを摘み、一気に口へと運ぶ。冷たい液体は口内に入ると同時に一気に熱くなる。故にハッキリと喉を通って腹へと至るまでの道のりを感じ取れる。冷たいと熱いの対極が同時に存在する矛盾、まるで量子力学だ。ちなみにこの知的比喩表現を友人のディミトリーに言ってやったら
「魂を酒にでも売ったか」と言われた。まぁ、あの時は私も泥酔者だったから、そう言われても言い返せなかった。物理的に、そして精神的に。
「――習慣にならないと良いけど」
案外、昼間から酒を飲むというのは悪くないのかもしれない。今までは仕事や学業などで昼間は殆ど図書館に居座って作業の毎日だったが、今日は珍しく時間が取れたからやってみたけれど、これは癖になりそうだ。
もう一杯、と言って再度バカルティを注ぐ。クッとくる刺激臭を嗜みながらゴクッと一気に飲む。
ここで私は確信した。これ以上飲んでしまうと、多分後戻り出来ないと。酒に弱いわけでは決してない。好き故に、止まらなくなってしまって一日中酔ったまま過ごしそうなんだ。流石にそれは避けないと。
自己管理能力。今年卒業したら社会に出て仕事をする身として、自分を律する方法などは熟知しておくべきだと思う。体調管理も然り。体調が悪ければ薬を飲んで睡眠を取り、画面の見過ぎで目が疲れた時は目のマッサージ器を買ったり、ストレスが溜まった時はゲームを起動して煽り散らかせばいい。
自分に呆れながら溜息を吐く。何故なら既に私は「もう一杯だけ」と言いながらグラスにラム酒を注いでいたからだ。三度目のグイっと。正真正銘の終わり、私は酒を冷蔵庫の中に戻す。若干頭がクラクラし始めていたが何の問題もない。夢の世界に逃げてしまえば、酒の有無など些細な事だ。
再度目が覚めると時計は午後三時を示していた。今日の睡眠時間は合計で七時間。睡眠サイクル的には残り三十分足りないが、体に疲れが残っていないので十分だろう。今度こそベットから降りてパソコンの電源を付ける。今の時代、デスクトップを個人で所有している人など中々いないだろう。一昔前までは自作パソコンを創る事が趣味の人も多くいたらしいが、AAS(Adaptive Augmented Sensor)が社会的に導入されて以降は需要自体が低下していき、やがて残ったのはサーバー管理用のパソコンやスーパーコンピューターなどを持つ会社、大学、後は個人で所有したがる異常者だろう。私の場合「仕事の為」という免罪符が無ければ異常者の仲間入りとなる。
パソコンが起動している間に、AASをスリープモードから起こす。手などでの指示や、声での起動申請などせずとも、AASは私の意識だけで起動した。短くOSが起動する効果音が鳴り、二秒くらいのローディングが済むとそこには先程までなかった光景が露わになった。
様々な植物が部屋の壁を覆い、所々に色とりどりの花や蕾が展開された。部屋の左の方には大きな木製の本棚がいくつか並んでいて、案の定そこには多くの本がぎっしりと詰まっていて、教科書は手元に置いておきたい派閥である私にとって、その多くは専門書などで埋まっていた。アイリス曰く、ここは「半世紀前のオフィスの廃墟」だそうだ。納得せざるを得ない、ピンポイントな命名だと思った。要因としては壁を這う蔦や本棚もそうだが、やはり一番の原因はデスク周り一杯に張り付けられた付箋。見た目だけで判断しても百個はある。今後の課題、人との予定、目標、友人が面白半分で大量に残した意味不明のメッセージ、などなど。故のオフィス、反論は許されない。
くだらない事を考えているといつの間にかパソコンは起動していて、ログイン画面が表示されていた。IDとパスワードを指に任せて入力しログイン、ホーム画面へと至る。そこには数多くのショートカットアイコンが疎らに置いてあり、何がどこにあるのかなんて私ですら解らない惨事だ。
ちなみにお気付きだと思うが、私は整理整頓が出来ない。
「今度アイリス呼んで整理手伝ってもらおう」
SNSアプリを展開させ、アイリスにメッセージを入力する。目の前にキーボードが表れ、そこに私は「暇な時間教えて、いつもの手伝ってほしい」と入力する。キーを一つ一つ指で押すたびにピコンと短い効果音が鳴る。
返事を待つついでにニュースアプリを展開させると一気に視界は様々なニューススレッドで埋まった。化粧品の新商品から、AASのOSアップデートの告知、「【史上初】人工知能が宇宙へ旅立つ!」などの内容まで。流石に鬱陶しいのでソート機能で見たい記事を絞っていく。まずは新作本の話題から。去年に発売されたミステリー小説「No.19の涙」の累計発行部数1000万部数を超えたらしい。噂ではもう既に次回作は書き終わっていて、後は編集部の確認待ちだとか。それ以外にも学生の間で大人気の恋愛小説「ペーパークラフトに載せた恋心」が有名監督の手によって映画化されるらしい。私はあまり恋愛小説読まないからそこまで喜びはしないけど、アイリスとかに教えたら大喜びしそうだ。これを餌に付箋の片付けもしてもらおうというのも一つの手である。
今度はカテゴリをテクノロジーに。数年前に開発された人型人工知能が近々業務オフィスなどで試験的に導入されるとの事。多くの反対意見、特に「自分らの仕事が減る」などの苦情、を押し切っての試運転らしく反感を買ってはいるが、果たして将来的にどう転ぶ事やら。それ以外には新規ゲーミングコンソールの発売日発表や先程話した初AI宇宙旅行やOSのアップデートなどなどの記事で埋まっていた。
「あと五分」はここまで。
壁一面、特にデスクトップの後ろの壁に張り巡らされた百鬼夜行のような付箋を全て見ていく。ある一角、そこは前にアイリスが片付けを手伝ってくれたおかげで苦労する事無く見る事が出来たけど、その他は案の定ハチャメチャで少し見ているだけで集合恐怖症に片足突っ込んだ私に頭痛を与えるのには十分だった。
「やめだ、やめ。アイリスが来るのを待とう。流石に滅入る」
左手で両目を覆い、少しだけ自分を落ち着かせる。
部屋の端にあるポエングに腰を落として、棚にある本を手元に呼び起こす。高校の頃に読んだ事のある小説、レイ・ブラッドベリの華氏451度。九年生の頃に国語の授業で読まされた時には内容が難しすぎてあまり好きではなかったのを今でも覚えている。でも大学に進学して再度手に取ってみると意外と面白く、今では一番好きな本として挙げている。
通算五度目。私は表紙を捲って文章を読み始める。「ドン・コングドンに感謝をこめて」から物語は第一歩目を踏み切った。
そう、これはユートピアを否定した男の話。それはまるで――
プルプル
着信音と共に目前にポップアップが展開された。アイリスから電話が掛かってきたとの事。手に持った小説に栞を挟んで、電話に出る。
『まさかまた散らかしたの?』
お察しの通りであります。
「違うんだ、聞いてくれハニー。私の意志でこうなった訳ではないんだ。ただ、結果的にこういう結末へと世界が動いただけなんだ! 信じてくれハニー!」
『で、どれくらい散らかっているの?』
高校からの友人って事もあって相変わらず容赦がない。茶番の相手すらしてくれないとは。
「面積的に見れば、この前アイリスが整理してくれた方の四倍くらいは」
『正直でよろしい。で、体積の方は?』
そして私が何かを誤魔化している事も容易にくみ取れるらしい。
「合計で六倍くらいはあるかな?」
プツッ
一言もなく、電話は切れた。まぁ私に非があるのだけれど、何を言わずに切られると悲しい。毎度の事だから今ではもう慣れているのだけれど。
溜息を吐きながら電話アプリを閉じる。アイリスが来るまで待とうと思い、ソファに全体重を預ける。先程まで来ないような雰囲気を醸し出していたけれど、どうせ一時間もすれば部屋に来て掃除してくれるだろう。
「どうせ今日は何もする必要ないし、だらだら過ごしてもいいか」
先程本棚に戻した小説を再度呼び起こして、読み始める。
そういえばこの前買った本もそろそろ読んだ方が良いのかなとは思うのだけれど、中々手が出ないのが現状だ。こう、買ったのにまだ読んでなくて未読マークの付いた本が大量にあると落ち着く。「私にはまだ、私を待ってくれている本達がいるんだ」みたいな主人公気質に溺れている自分、中々悪くない。
にしし、と悪役みたいな笑みを浮かべていると、心のどこかで罪悪感らしきものが浮かび上がってきた。こう、少し悪戯して「あっ」となる程度の小さな感情、だけどそんな小さな針だからこそチクリと痛む。
「この、見覚えある感覚はいったい……」
学生なら誰もが感じた事のある心の歪み。まるで今自分がしている事自体が罪そのものだと言わんばかりの感覚。決して激情ではなく、だけどゆっくりと足元から這いずりやがて全身を引きずり込むような重量のある刺激。
だが思い当たる節がない。この感情はどこから来ているんだ。私は何を間違えて、何を見落としてしまったのだ。学校の課題は終わらせた。友人との約束も今週は無いはず。ゲームの約束とかは別にすっぽかしても問題ないからパス。
顎に指を当てて考えているうちに、視線がデスク周りに向かっていた。その先には大量の整理されていない付箋。
ごクリと唾を飲み込む。嫌な予感がしたと同時に絶望に耐えるためのメンタル防御壁が築き上げられた。付箋の束に触れる。注意深く一つ一つ確認して、何も見落としていないことを確認したかった。だけど――
「あ、死んだわ」
地面に膝をつく。メンタル防御壁を貫いて、真実は私の心を貫いたのだ。
◇
「理由を聞かせてもらおうか、クェノンくん」
日曜日。時刻は二十二時二十七分。正確には昨日、土曜日の四十六時二十七分。
私はとある部屋に居た。去年から何度も通っているオフィス。このご時世に未だに紙媒体を好む教授、トラヴィス・ケイラー教授のオフィス。そこには眉間に皺を寄せた彼と、となりで呆れている同期のディミトリーと、床に膝をついて反省をしている私が居た。
「言い訳をさせてください」
「おぅ、聞いてやるとも。許しはしないけどな」
相変わらず容赦のない人。
「授業や課題に結構追われてて、なんといいますか、そういう時に飲む酒って美味しいじゃないですか。それに酒を飲むと記憶って曖昧になるじゃないですか。それにですね、一応付箋にも書いたんですよ、でも結局埋まっちゃって忘れちゃって本当にすみません命だけは助けてください」
「遺言はそれだけかい、クェノンくん」
目を瞑って罵声を受ける覚悟を決めた。だが、次に聴こえたのは溜息と私の頭を紙で優しく叩く音だった。予想外の展開にキョトンとした私は両目を開けて教授の呆れ顔を見上げる。
「まぁ結果はちゃんと出しているから今回は許そう。解読も上手くいったらしいからな。それにクライアントである政府関係者も別に今回のは急用じゃなさそうだし、問題は無いだろう」
「でも次からは気を付けた方がいいよ、クェノン」
「わ、解ってるよ」
本当に今回は幸運だった。受け持った暗号解読の暗号そのものが前にも一度解いた事のある暗号と同じ系統だった故に、たった一日で解読出来たのだから。普段だったら最低でも三日はかかる。
「ちなみにディミトリーは何か予定があってここに来たんじゃないの?」
「あぁ、その件だがな」
と言ってケイラー教授が割り込んできた。
「クェノン、君に休暇を与えようと思う。二日後に春休みがあるだろ、その一週間は仕事は休んでもらう」
「その間の仕事を僕が受け持つって話をしてたんだよ教授と」
休暇という単語を教授の口から聴いたのはいつぶりだろう。いや、多分一度も聴いた事ないかも。それ程その言葉は彼とは不釣り合いだった。まず本人が自分の研究に没頭しすぎて休む事をしないのもそうだし、私達にもそれを強要してくる人が休暇と口にすれば、違和感を覚えるのも頷けるだろう。
「あれですか、休暇と言っても永久休暇とかですか? 久しぶりに会社に帰ったら自分の机が消えていた的なあれですか?」
「勘違いするな、こっちにだって事情があるんだ。まず自分では気付いていないだろうが、お前は自分が思う程休みを取っていない。追加して、お前の不健康な生活態度や目元の隈を見て私にクレームを入れる生徒や教授が結構いるから面倒事を避ける為にもお前を休ませたという事実が必要なんだ。分かりやすく言うと前半が建前で、後半が真意だ」
確かに。授業に出るたびに他の教授や生徒たちにこんな疲れ切った顔を見せていれば授業をする気にもならないだろう。思い当たる節はある。私が一番眠そうにしている授業といえば言語学系の授業を受けている時で、今期はフレデリカ教授の授業しか取っていない。たまに彼女と最前列に座る私の視線が重なる時があるが、いつも若干申し訳なさそうな顔をしているのを微かに覚えている。
自己管理もマナーの一つだという事か。
「後はまぁ、正式な仕事がないのも理由の一つだ」
「あれ、じゃぁディミトリーが引き受けるって仕事は?」
「私の研究の手伝いだよ。元々は君に手伝ってもらう予定だったけどね」
「内容を聴いた限り、まぁ大した事じゃなさそうだから休暇を楽しんで来たら?」
「休暇ねぇ……どうせ部屋で酒飲んで寝るだけの休暇になりそうだけど」
酒を飲める歳になってから、時間があれば酒を飲んで盛大に寝るのが私の休暇と決まっている。抵当な動画を大型モニターに展開させて、部屋は映画館テーマで構築し、手には酒と肴。考えるだけでも口角が上がる構成だ。
「そういえばクェノン、地元には帰ってるの? 最近連絡もないから寂しいってクェノンのお母さんが言ってたよ」
中学からの親友であるディミトリーは当然私と同じ町出身だ。当然、私の両親とも面識はある。この前の冬休みにディミトリーが実家帰った時に私の母から伝言でも預かっていたのだろう。あの人、何故かこいつに私の面倒見て欲しいみたいなこと言ってる節があるからな。
「いやぁ、確かにそうなんだけどね……」
私はあまり実家に帰るのを好まない。別に両親が嫌いとか、地元が嫌なわけでもない。ただ、思い出したくない思い出が多いだけという事。
「ベネッタも、クェノンに会いたいって」
「――それは、ズルいでしょ」
その名前を出すのは卑怯だと思った。私がその名前に弱い事を承知の上での発言だから。
「でも、寂しがっていたよ。久しぶりにクェノンと話したいって」
「いやぁ、でも」
「いいじゃないか、実家に帰るの。久しぶりに帰って母親の顔でも見て来い。大学卒業したら今以上に両親とは会えなくなるんだからな」
「そういうもんなんですかね」
「仕事とかで忙しくなるからな。会社に移動する際に距離的にも遠くなるだろうし時間の余裕もなくなる。学生の時は最低でも夏になれば時間は出来るからいいが、社会に出れば夏休みなどないからな」
「経験者は語る、ですか」
理にはかなっているが、感情的には帰りたくないというのが本音。だけど工学部に居る生徒として、理屈を無視して進むのは気が引ける。
それに先程から少し申し訳なさそうにディミトリーがこちらを見てくる。罪悪感を植え付けるような視線が私から離れない。私の事を知っているが故に、両親とベネッタの事を知っているが故に、こういう立場でこういう言葉を放つしかないのだろう。
優しい故に生まれるズルさ。
「はぁ、分かったよ。帰ればいいんでしょ」
そして、その優しさに弱い私。十年間、いつも見てきた風景だ。
「それじゃ私は帰りますね。身支度をしなければならないので」
「私達も帰るとしよう。ディミトリー、明日から頼むぞ」
「分かりました」
床に座っていた私は、右手を膝につけて立ち上がる。バックを片手で持ち上げて背負い、博士のオフィスを後にしようとした時、背後から呼び止められた。
「クェノン!」
「今度はなに?」
しっかりと振り向く事無く、足を止めて声だけで応答する。
「よろしく頼むよ」
そんな情けない声を出さないで欲しい。責められないじゃないか。
私は声を出して返事をする代わりに空いた右手を挙げる。
オフィスを出て私は思う。昔馴染みの親友の頼みだ。曖昧に答えはしたけど、彼の言葉を無下にするわけにもいけない。元々他人に何かを頼まない彼からのお願いだ。彼の為にも少し頑張ってみよう。
いや、彼を言い訳にするのは卑怯だ。
ある意味これは私にとってもいいケジメになるだろう。いい加減、逃げ回るのはやめにしてしっかりと向き合って、語り合って進むべきだ。
ベネッタと別れて約四年。
彼女を救う事すらしなかった私の、初めての罪滅ぼしの機会だ。