第零節〔零れる過去、いつしか幻想となる〕
「世界は、必死にその醜さを隠そうとするけど、不完全故に隠しきることは出来ない」
姉は、九歳の私にこう語りかけた。
太陽が地平線に沈むにつれて鮮やかな橙色を空一面に広げるのを崖の上で私たちは見ていた。人差し指と中指で挟んで持ったタバコから出る灰色の煙が風に揺れて南西へと垂れる。まだ何も知らない無垢だった頃の私でも、この景色と雰囲気を味わえた事は奇跡に等しいだとうと理解していた。それ程までに、この記憶は鮮明に焼き付けられている。
右手を口元に持ってきて、すぅと煙を吸う。右手を離すと同時に息を吹くと濃い煙が踊りだした。私の嫌いな臭いを纏いながら。
「ならばそれを、私の手で完璧にすればいい」
姉は続けてそう口ずさむ。
先程は、姉が私に語り掛けていると言ったが、ここで九歳の私は間違いに気付く。姉は今、私に話しかけているのではない。私を通して、私が見ている姉本人に語り掛けているのだ。
「ねぇ、クェノン」
そうだ。この目だ、この口調だ。姉が私へと言葉を向ける時は、いつも好奇心に満ちた子供のような視線を向ける。
「クェノンは、この場所好き? 綺麗だと思う?」
「綺麗だと思うよ、お姉ちゃん」
「そうか、それは連れてきた甲斐があるな」
先程までとは打って変わって、笑顔満面の姉。胸ポケットから携帯灰皿を取り出して吸い殻を捨てる。それでも残り香は姉を包む。
「クェノン。お姉ちゃんと一つだけ約束してくれるかな?」
「約束? いいよ」
「クェノンはさ、素直に生きるんだよ。嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、苦しい時に逃げて。そしていつか、必ず幸せになるんだよ」
何故、そのような事を私に要求したか。当時の私は理解出来なかった。
でも、今なら解る。今だからこそ解る。
姉は、私に全てを託したんだ。