勘違い
外が騒がしい。ばたばたと。
この足音は慌て屋のトーマスか。
ノックもせず、ドアが思いっきり開けられる。
「エドワード様!大変です!」
よほど走ってきたのか、燃えるような赤い髪が残念なことになっている。
「まず、落ち着け」
「いいえ!落ち着けません!一大事です!なんと、なんと、クリス嬢が牢から脱走しました!」
ゼェゼェと苦しげな息を吐きながら一大事件を伝えるトーマスを涼しげな顔でエドワードが見ている。
その表情からは驚きが全くない。
「もしかしてご存じでしたか?」
「いいや、全く」
運動音痴だが、全力で走って伝えにきたトーマスは、主人の反応に肩を落とし残念そうである。
「…驚かないのですか?」
少し不満げに聞く。
「驚いている」
いや、全く驚いていない!と言いたいのをぐっと堪えたトーマスは冷静になって、自分がこの情報を聞いた瞬間に放り出してきた仕事たちを思いだした。
執事長が確認に来る時間だ。
「エドワード様!失礼してもよろしいでしょうか!?」
「…どうぞ」
「ありがとうございます!」
言うとすぐ部屋を飛び出した。今の彼の頭の中を占めているのは執事長に見つからずに戻らなくては!
ただ、それ1つだった。
トーマスの行動に慣れているエドワードは、執事長に連絡を取るため、呼び出し鈴を鳴らす。陰で時間稼ぎのために、エドワードが毎回行動してくれているのをトーマスは知らない。
様々な色合いのある鈴は各所に繋がっており、音の違いや組合わせで誰を何処に呼ぶのか判別できるようになっている。
鈴を鳴らして少しして、コツコツと規則正しい音で近寄ってくるのは小さなときから仕えてくれている執事長だ。年は60過ぎである。規則が正義のような雰囲気を醸し出す男だが、実際手を抜けるとこはしっかり手を抜く器用者で一族の信頼が厚い。
「お呼びですか」
先程とは違い丁寧なノック後、ゆっくりと扉が開かれる。
「爺。クリスが逃げたら」
どんっと音を立て開かれた扉によって、言葉が遮られる。
そこにいたのはガンジスだ。
「ガンジス、失礼ですよ」
執事長が顔をしかめる。
「申し訳ありません。しかし!大変なのです!あの女が牢から逃げ出したのです。このような事になるのなら昨日のうちに終わらせておくべきでした!私めのミスです。急ぎ捜索隊を増やし、あの女を連れ戻します。エドワード様には不快な思いを与えてしまい申し訳ない。では!」
顔赤らめた男はギラギラした目でエドワードの返事も聞かずに出ていった。
「…クリスが逃げたそうだ」
「ええ、そうらしいですね。」
執事長は無礼な行為に気分を害しているのか、口調に冷たさがある。エドワードが、身分による礼儀を全く気にしないことで周りが緩みまくっているのは執事長の悩みの種の1つである。
元婚約が聖女に毒を盛り、逃げ出したことをこの主人はどう思っているのかと顔色を伺う。
目が合うが、そこに悲壮感はまるでない。
「噂を聞いて、爺はエドワード様が逃したのかと思いました。」
「ああ、逃がす前に逃げられた。」
「…爺は何も聞こえておりませんので。」
王も含めた議論の結果、クリスの罪は決定し、逃がすことは決してしてはならない。逃がした者も、同程度の罰を受ける事になる。聞こえていないと言いながら、周りに人が居ないか確認する。
「クリスは、私の考えている通りに動いたことがない。しかし、今回ばかりは牢の中。ただ座って、そこに居ればよかっただけだ。……牢の中だぞ。普通居なくなると思うか?」
「爺は何も聞こえません。」
「無駄だ。耳が遠くなっても、爺にはしてもらうことがある。すぐ、カレンを向かわせてクリスの無事を確認し、最初の予定通りにあの場所に保護をするように伝えてくれ。」
執事長こと爺のシェパードは不思議だった。
そばでずっと見てきたが、エドワードがクリスの為にここまでしようとするとは思わなかった。この2人の関係に甘さはまるでなしだと思っていた。惚れていたのか?感情を表情に出さない彼である、気付かなかったのかもとシェパードは整理した。
「クリス嬢のことを好きだったのですね。」
ぽつりとつぶやいた。相手が少しあれだなと思わなくもないが、坊ちゃんに恋愛感情というものが生まれたことはとても嬉しい。一生しないのではないのかと。これも彼の悩みの種の一つだったのだ。
「爺。どうした?」
何も言わずに、感慨深い表情になっている爺に首を傾げる。
頭を整理していた爺は疑問に思った。
「はて?そうなると、婚約破棄をわざわざ言う必要もなかったのでは?」
「ああ、婚約破棄は初めて会った時から彼女がしたがっていたから。」
「…さようで。彼女に言葉はかけましたか?女性には言葉が必要なのですよ。」
人の目を惹く素晴らしい容姿とその賢さでエドワードは女性はもちろん男性にも人気である。目が合うだけで、泣いたり倒れたりする者もいる。
それなのに、ずっと辛い片思いをしていらっしゃたのか。私は側にいながらそれに気づいてあげることができなかった。執事失格だと爺は反省を繰り返す。
「そうか。何と言えばいい?」
「それはもちろん、君は私の光だ。君がいない世界はありえない。とでも言えば完璧です。」
「そうなのか。分かった。ではクリスに会ったら1番に伝えることにしよう。」
「ええ。私の至らなさのせめてもの償いに、今回は協力します。」
そう言うと、爺はカレンに指示を出すため部屋を出た。
エドワードは出ていった爺を見て首を捻っていた。
至らなさのせめてもの償いに。とはどういうことか?
彼を至らないと思ったことはない。
それに逃がすのをだめだと言ったわりに、すぐ引き受けてくれたのはなぜか?
…やはり、爺は小さい時からクリスを知っているから見ていられなかったのだな。
そうか、そうかと納得する。
2人は、爺がエドワードと恋愛を軽く繋げたことでできた微妙なズレに気付かず、クリスの為に行動を起こすのだった。