ナオさん
「今日、彩ちゃんとジーズ行くんだけど、ナッピ、バイト何時まで?」
未生ちゃんがそう電話してきたのは、日曜日のお昼前。
実家に帰っていたあたしは、夕方からの鮮昧のバイトに間に合うように帰るつもりだった。
「一応、10時までだけど。お客さん少ないと、早めに上がらせてもらう時もあるから…」
「そっか。じゃあ、仕事終わった頃に、ちょうど私たち、ジーズにいるかも。一緒に飲もうよ」
「あ…うん、じゃあ、時間あったら、顔出すね」
未生ちゃんが上機嫌なのが、声だけでも伝わってくる。
桜木さんと一緒にテニスサークルに参加した後、友達の「彩ちゃん」と会う約束だそうだ。
彩ちゃんは、菊森彩乃さん、というらしい。
小中学生の時に、一番仲の良かった友達だったんだけど、彩乃さんが中学2年の時に転校して以来、音信不通になっていた、と未生ちゃんは教えてくれた。
その彩乃さんに、
「偶然!ほんっとに偶然!会ったの!」
と、未生ちゃんが興奮気味に帰ってきたのは2週間くらい前のこと。
駅前のファッションビルに入っている、ショップの店員さんをしているそうだ。
あたしは彩乃さんに会ったことはない。
正直、初対面の人と話すのは苦手だ。
ショップの店員さんで、未生ちゃんの親友。間違いなく、オシャレで社交的な人だろう。
共通の話題は、未生ちゃんのことしかない。
気を遣ってくれなくても、2人で気兼ねなく、飲んできてくれていいのに。とも言えなかった。せっかく誘ってくれたことを思うと。
ジーズ・バーがあたしのバイト先の鮮昧の上の階にあるから、というだけで未生ちゃんは誘ってくれたわけじゃない。
彩乃さんの彼氏が、ジーズでバイトをしているのだ。というか、彼氏がバイトしているから、ジーズに来ることにしたのだろう。
彩乃さんと話をするうち、同棲している彼氏があたしのバイト先と同じビルで働いていると分かって…
なんか、話の流れで、ジーズで飲もう、ということになったらしい。
桜木さんが、明日早めに出勤するので一緒に行けないことも、あたしを誘った理由の一つだろう。
一泊二日の荷物はたいした量じゃない。
マンションには帰らず、実家から真っ直ぐ鮮昧へ向かう。
日曜日の夕方の地下鉄は、家族連れや友達同士で、それなりに混んでいた。
降りた時の空の明るさが乗った時とまるで違って、日が暮れるのが早くなっていることを実感する。
そういえば、10月に入ってから、日に日に気温も下がって、大学の最後のコマの講義だと、教室の外が暗くなっていく様子が見えるのが、憂鬱だ。
寒さに近づいていくこの季節が、あたしは真冬よりも苦手だった。そして最近は、いろいろと気を重くする出来事が続く。
何事もない、平凡な日常って素敵だ。変化がないのは退屈だという人もいるけど、あたしは退屈っていいことだと思っている。いろんな意味で、余裕があるってことでしょ?
もちろん、たまに旅行に行ったり、ライブに行ったりするのは、ちょっとワクワクして楽しい。でも、最近のウィンガー絡みの出来事は…ワクワクの範疇を超えている。
あ…信号待ちの人の中に、ウィンガーがいる。
絵州市で隠れウィンガーが増えているという情報は確かで、大学に入ってこちらへ来てから、おそらく登録されていないであろう外国人ウィンガーをちょくちょく見かけていた。
特に、鮮昧でバイトするようになり、夜の繁華街を歩く機会が増えると、彼らを見かける頻度も増えた。
数メートル先で、信号待ちしている男性もそんな1人だろうと思い、いつも通り何食わぬ顔でやり過ごそうとして…
あれ?もしかして…
肩まで伸びた髪を一つに束ねた、黒いライダージャケットの後ろ姿は、見覚えがある。
男性の後ろにいた小さな男の子が、
「い〜か〜なぁぁぁぁいっっ!!」
と、急に奇声をあげ、しゃがみ込んだ。
驚いた男性がパッと振り返り、足元の子供を見下ろしてから、顔をあげる。
あ、やっぱり。
目が合うと、男性の唇が「お」の形をつくり、それから笑った。
「あ、お疲れ、さまです」
こんにちわか、こんばんわか、迷ってそう言ったけど、「お疲れ様」もちょっと違うかな…?
「凪ちゃん、おはよう」
…ナオさん的には、その日最初に会ったら「おはよう」でいいのか…
このナオさんが、彩乃さんの彼氏だ。
ジーズ・バーのバーテン見習いのバイトさん。そして、隠れウィンガー。
彩乃さんにも、ウィンガーであることは言っていないらしい。
同じ歳だけど、あたしたちのクラス出身ではなくて、ただ何か、思うところがあって、登録されたくないらしい。それ以上のことは、あたしは聞いていない。聞く気もなかった。
ナオさんも、あたしがウィンガーであることは知っているはずだけど、深入りする気はないらしく、顔を合わせても、そういう話題に触れたことはない。
信号が変わり、奇声をあげていた男の子は、お父さんに抱き抱えられ、強制連行されて行く。
「凪ちゃんも今から仕事なんだ」
横断歩道を並んで歩きながらも、ナオさんはあたしと絶妙な距離を保っている。馴れ馴れしい感じでなく、よそよそしい感じも与えない距離。
ナオさんから「凪ちゃん」と呼ばれてもあまり抵抗感がないのは、そこに遠慮がちな響きを感じるからかもしれない。
以前、ホストをやっていたこともあるらしく、コミュニケーションの取り方とか、対人スキルが高いのかもしれない。
あたしとしては、羨ましいというか、見習いたいな、と思うところ。
「ナオさんも、今からですか?」
ジーズの営業は5時からのはずで、たいていナオさんはもっと早い時間から店にいる。
首を傾げるあたしに、ナオさん小さく頷いた。
「昼間、清掃のバイト行ってて。今日の現場、遠くてさ。遅くしてもらったんだ」
ふっと、眼差しが真剣な光を帯びる。
「元太さん、そういうのいろいろ聞いてくれるから。ありがたいよ」
穏やかな、真面目そうな横顔。はっきりとした線で作られた顔立ちだ。あたし好みのイケメンとはちょっと違うけど、なかなか魅力のある見た目だと思う。
元太さんは、ジーズのマスター。
マスター、と呼ばれるより名前で呼ばれる方が好きらしい。
ナオさんがバイトしてるのは金曜日から日曜日で、それ以外の日は元太さんが1人で切り盛りしている。
50代の渋いおじさまで、ちょっと悲しそうな笑い方をする。いつも静かな調子でしゃべり、大きな声をたてたところを見たことがない。
いかにもバーのマスターという感じ。そして、あたしたちの良き理解者でもある。
知り合ったナオさんを、蝦名くんがジーズに連れてきたのも、そういうわけだろう。
いろいろと事情があるらしく、ナオさんがいくつものバイトをかけ持ちしていることは、あたしも知っていた。
「日曜日なのに大変ですね」
あたしもこうしてバイトに向かっているわけだけど、丸一日仕事で潰れるわけではない。
「うん、でも彼女も日曜日は休めないからさ。1人でいてもすることないんだ。オレ、趣味とかなくて」
気さくに話してくれるナオさんだけど、2人でこんな風に話すのは初めてだった。
普段、店で会った時は、天気の話とか、忙しいとか、ヒマだとか、そんな当たり障りのない会話を交わす程度だ。
「今日、凪ちゃんも来るの?」
未生ちゃんと彩乃さんのことだと、すぐに分かった。
「そう…ですね。遅くならなければ…」
曖昧なあたしの返事に、ナオさんは苦笑した。
「明日、学校だもんね」
「ええ。まあ…」
「ヤダなの!!」
あたしの声は、強制連行中の男の子の激しい講義の声に、半分かき消された。
横断歩道を渡り切っても、まだ諦めていないらしい。地面に降ろされ、バタバタと足踏みしている。
ああ、あれは典型的な"地団駄"だな。
傍目で見る分には、微笑ましくすらあるけれど、親はたまったもんじゃないんだろう。彼の両脇に立つ両親は、疲労困憊の顔だ。
「ふふ…大変そうだな」
小さく呟くナオさんも、あたしと同じように感じていたに違いない。
「あ、そう言えば…高野さんのこと、教えてもらったよ」
一瞬、誰のことかピンと来なかったけど、すぐに愛凪ちゃんのことだと気がついた。
この間、愛凪ちゃんと会った後に、本郷が話したのだろう。
考えてみればあの時ー鮮昧に愛凪ちゃんがいた時、そのすぐ上の階にナオさんがいたわけで。
店が違うとはいえ、たまたま外に出てきた時に鉢合わせたら、隠れウィンガーだと見咎められる可能性もあったのだ。
「本郷さんが、お兄さんから送ってもらった写真、見せてくれたから…顔は覚えたつもりだけど。顔が分かるくらい近くにいたら、オレの方がバレてるよな」
ナオさんがそう言って笑ったので、つられて笑っちゃったけど…そう、そういうことだ。
「まあ、その時は約束通り、素直に投降するけどね」
「そうならないように気をつけるしかないですね…」
気をつけるって言ったって、対策室の周辺に近づかないとか、そんな程度のことしか思いつかないけど。
あたしたちの同級生ではないけど、一応、同様の約束をナオさんにもしてもらったそうだ。
登録されることを決めたら止めない。ただし、他の隠れウィンガーの情報は話さない。あと、見つかったら、下手に抵抗せずに登録されること。
ナオさんがその約束を守る筋合いは特にないのだけれど、すんなり受け入れてくれた、と本郷から聞いている。
「待って!!そっちじゃないってば!!」
地団駄の少年は、今度はあらぬ方向へ駆け出そうとしたようだ。車道に飛び出しそうになるのを、慌てて母親が引き止める。
あたしたち2人はつい、その子の方に目をやりながら、曲がり角を曲がろうとしていた。
「!」
出会いがしらに、向こうから曲がってきた人たちとぶつかりそうになって、思わず半歩飛び退いた。
「え…」
「あ…」
「お、凪ちゃん!」
その声の主に、「すみません」と言おうとして、言葉が詰まる。
突然現れたのは桜木さんと…なんで、このタイミング…
「ウィンガー!」
叫んだのは、愛凪ちゃんだった。
同時に、あたしの隣のナオさんが身を翻す。えっ……
背中を向けて猛ダッシュしていくナオさんに、あたしは声が出なかった。
いや、ちょっと、今言ってたことと違うじゃん!!ここで逃げたら、後々かえって面倒なことになって…
あたしが唖然としている間に、桜木さんがナオさんを追いかけ始めている。え、あ、愛凪ちゃんまで…
「ナオさん!約束したでしょ?!」
あたしは、やっとそれだけを後ろ姿へ叫んだ。
まずいでしょ…これは。心臓がバクバクいってる。
どうしよう…まずは…
桜木さんも愛凪ちゃんもいない今のうちに…
メッセージを打とうとして、電話した方が早いと思い直した。
「本郷、今、ジーズのナオさんが愛凪ちゃんに見つかっちゃった!」
幸いすぐに出た本郷に、あたしは早口で告げる。
「えっ…どこでだよ」
「出勤する途中で。ナオさん、ものすごいダッシュで逃げちゃって。桜木さんって、ほら、あたしの友達の彼氏もちょうどいたもんだから。今、追いかけられてる」
本郷は事態をすぐに飲み込んでくれた。
「逃げたって…あいつ〜」
苛立ちのため息が聞こえる。
「お前は?水沢、見つかってないよな?」
「うん、あたしは大丈夫。とりあえず、今愛凪ちゃんもナオさん追っかけてるから、今のうちに教えておこうと思って」
電話の向こうで、本郷が頷いた気がした。
「オレ、今ジーズにいたんだ。吉川たちと待ち合わせしててさ。妹と顔合わせるとまずいから、とりあえず、ばっくれるわ。ごめん、後でまた連絡して」
「う、うん、分かった…」
全部言い切る前に、通話は切れた。
吉川…?……あ、ミミちゃんのことか。多分。
吉川美実ちゃん。小学校の同級生。やっぱり、ウィンガー。
ただ、あたしたちのように翼を隠せるウィンガーじゃない。愛凪ちゃんと会ったら、ウィンガーだとすぐにバレるだろう。
女子はみんな、彼女を「ミミちゃん」と呼んでいた。ま、名前を訓読みしただけなんだけど。
ミミちゃんとは、実は小学校卒業してから一度会っている。でも、それっきり。連絡もとっていない。
吉川、と急に言われてもすぐに誰のことか分からなかったのは、仕方ないでしょう。
とりあえず、本郷に電話したのは正解だった。
ナオさんが捕まっても捕まらなくても、対策室の人たちはジーズに話を聞きに行くだろう。この状況で本郷と鉢合わせたら、愛凪ちゃんだって、何かおかしいと思うだろうし…
やがて、桜木さんと愛凪ちゃんが一緒に戻ってきた。
2人とも顔を紅潮させて、特に桜木さんは最高に不機嫌な顔をしている。
後ろの愛凪ちゃんのことは一顧だにせず、音の出そうなほどの大股で、ドカドカとあたしに近づいてきた。
「凪ちゃん、さっきのやつ、誰?」
開口一番、有無を言わさない口調でそれだ。さすがにカチンときたけど、素知らぬふりを貫いた。…大丈夫かな、顔に動揺してるの、出てないかな…いや、動揺してても当たり前のシチュエーションだ。
気にしない、気にしない…
「あの…ウィンガーって…」
桜木さんの問いに、ストレートに答えてやる気はなかった。
ちょっと興奮気味の桜木さんは、イライラを隠せてない。
「ああ、あいつ、隠れ天使だ。だから、教えてくれ」
「え…でも、なんで隠れって…登録されてるかも…」
「登録はされてない。だから、逃げたんだ」
だんだん目つきがとんがってくる。
ここはひとつ、もう少し引き伸ばそうか…
「桜木さんの会社って…そういう仕事してるんですか?」
ぎくりとしたのは、桜木さんだけじゃない。隣の愛凪ちゃんも視線が泳いでいる。
まあ、このくらいにしておきますか…
「ナオさん…え、と…タテヤマ…ナオさんです。鮮昧の上にあるバーのバーテンさんで、これからお店に行くところでした…」




