愛凪ちゃん
「あの…すいません、職場の人にはすぐに帰るって言ってたので…見られると、ちょっと…」
アイちゃんは歩き始めるとすぐ、そう言って周りを見渡した。
なるほど、職場の人には説明しにくい話なんだろうか。確かに、二次会で他の店で飲んでいる可能性はある。これだけ店のある繁華街で、鉢合わせる可能性はそうそうないけれど。
「じゃあ、すぐ近くのお店にしましょう。学生がよく行くお店だから、社会人の人とか少ないし」
すぐ思いついたのは、大学の人たちと何回か行ったことのあるバーだった。
「というか、あたしもいろんなお店知ってるわけじゃないけど…」
と、言い訳も付け加えておく。居酒屋でバイトはしているけれど、なにせ貧乏学生なので、あまり飲み歩いたりはしていない。
歩きながら、高野海人について、記憶を辿る。
丸顔、クリクリした丸い目。勉強はどのくらいできたのか知らないけど、運動神経は結構良かった。
いつも、ケラケラ笑ってて…「水沢!水沢!昨日妹のクラスでさ…」「そんで、うちの妹がな…」
あ、思い出した…
「愛凪ちゃん!」
ふいに記憶が蘇り、気がついたら後ろを振り返っていた。
「はい」
条件反射のように、返事を返してから、アイちゃんは驚いた顔になる。
「思い出した。あたしの名前、凪って言うんだけど、同じ漢字使ってるでしょ。うちの妹の名前も同じ字を使ってるんだって、お兄さんが言ってたんですよ」
なるほど、と納得したらしく、愛凪ちゃんは深く頷いた。
「多分、5年生で初めて一緒のクラスになって、最初の会話がそれ。俺が妹の名前決めたんだって、自慢そうに言ってて…んと…印象的でしたね」
いきなりなんで、そんな話するんだコイツ…と思いました、とは言えず、当たり障りのない言葉を探した。
正直、印象に残っているのは高野くんの顔でも声でもなく、そのやたらとフレンドリーな態度だ。
1学年170人以上いるマンモス校だったから、同じクラスにならなければ、顔と名前もほぼ一致しない。彼とも5年生で初めて同じクラスになったはずだ。それがいきなり名札を指差して妹の話を始めた。
引っ込みじあんで、友達も少なかったあたしは、そのフレンドリーさになかなかついていけず…
でも、そんなあたしに、高野くんはよく話しかけてきた。きっと、妹の愛凪ちゃんとあたしの弟の洸が同じクラスだったから。妹の話をしたい時には、ちょうどいい相手だったのだろう。
何を話したかはほとんど覚えてないけど。
そんなことを思い出しながら、あれ、とそこで疑問を感じた。
洸は高校2年生。同じ歳の愛凪ちゃんが働いている?もちろん、中卒で就職する場合もあるけれど…
あまり突っ込んだことはまだ聞かない方がいいかと、その疑問はそこで置いておいた。
目的の店のは、鮮昧からほんの5分ほど歩いた先のビルにある。
青みがかった照明で満たされた店内。
鮮昧とは対照的に、お客さんはほとんどが
学生やあたしと同年代くらいの若い人たち。
カクテルの種類が豊富で、フードの種類もそれなりだけど、いずれも手頃な値段なのが魅力。
味やサービスは値段相応といったところ。そのため、学生や若者グループが二次会に利用することが多くて、バーといっても、店内は静かにグラスを傾ける雰囲気、というよりはほどよくざわついている。
案内された隣のテーブルのお客さんはちょうど帰り支度をしていた。ほかのテーブルは少し離れているから、デリケートな内容の話には丁度いい場所に座れた。
「あぁ、ここ、あったかい・・」
席に着いた愛凪ちゃんが大きく息を吐いて、表情を緩める。やっぱり、寒かったんだろうな。
2人してホットの烏龍茶を頼み、ツマミにポテトとチーズの盛り合わせを注文した。
愛凪ちゃんが烏龍茶を一口飲むのを待って、あたしは、切り出した。
「あの、それで、あたしの名前、どこで聞いたんです?」
愛凪ちゃんは、何故か財布から水色の付箋紙を取り出した。
差し出された手のひらサイズのそれには、確かにあたしの名前。
え、なにこれ…?
更に、あたしの名前の下には『本郷』と書かれている。そしてそのそばに、『T大』の文字。
『本郷』の下に書いてある2人の名前も、知っている。
んー、どういうこと…?
書いてある名前は全て小学校時代の同級生だ。しかも、全員ウィンガー。
ということに、愛凪ちゃんは気付いて…いないよね…?
あたしの反応を気にする風でもなく、愛凪ちゃんは意を決したように話し始めた。
「あの…実はお兄ちゃん、1週間前から連絡が取れなくて」
え、なんか事件っぽい話?
「お兄ちゃん、ウィンガーになって、トレーニングセンターに行くじゃないですか。その後からずっと向こうの学校通って、就職も東京でしたんです」
すぐにこのメモの説明にはならないらしい。
「区役所だったから…公務員になれて、よかったね〜って…言ってたんですけど、実は結構いろいろあったみたいで。体調崩して、1月にこっちに戻ってきたんです。それからはあんまり家からも出なくなっちゃって」
ちょっと重たい話になってきた。
さらっと聞き流した方がいいのか、真剣に何か意見でも言わなきゃないのか…
「でも、うちでは普通に話したり、たまに外食に行ったりもしてたんです。調子良くなったら、仕事も探さなきゃって、ホント普通に…」
愛凪ちゃんは、一旦口をつぐんだ。どう説明したらいいか、考えているみたいでもある。
「なんにも言わないでいなくなっちゃったの?」
そう聞いてみると、大きく頷いた。
「私、今月から働き始めたんです。その…知り合いの人の紹介で。その仕事が決まったあたりから、なんだかちょっと…様子は変だったんですけど。1週間前に急に仕事見つかりそうだから、落ち着いたら連絡するって置き手紙残して…そこから連絡つかないんです」
自分が引きこもり状態なのに、妹が就職したことで、プレッシャーを感じたんだろうか。
「スマホも、パソコンも初期化されてて…連絡つきそうな知り合いとかも分からなくて。なに考えてるんだか、友達とか、前の職場の連絡先とかも全部、消しちゃって」
なんだか、かなりヤバイ状況に聞こえるんだけど。
「それ、警察には?」
当然、届けていると思っての質問だったのだけど、
「うちの親が…騒ぎ大きくすると、かえってお兄ちゃんが見つかった時、大変になるから、様子みようって言うんです」
愛凪ちゃんの答えに絶句してしまう。
なんで?取り返しのつかない状況になってたら、どうするの?
だって、こういう場合、自分で命を…可能性だって…
だけど、瞬きを繰り返して、必死に涙を堪えている愛凪ちゃんを見たら、そんなことはもちろん言えなかった。
この子も、分かってる。口にしないだけで。だから、こんなに不安そうで、切羽詰まった顔になってるんだ。
警察への届けをためらうご両親は、どう考えているんだろう。
「そんな…もの、なのかな…ウィンガーって…よく…わかんないけど」
あたしには、そんなことしか言えなかった。
そして、メモ用紙の説明がまだなことを思い出した。
書かれた自分の名前に指を伸ばし、
「で…これは?」
と、促してみる。
「あ、これは…部屋に落ちてたんです。昨日の夜見つけて。この付箋紙、私があげたんです。お兄ちゃんがいなくなる2、3日前に。だから、最近書いたメモだと思って…」
それで、この人たちに連絡を取っていたのではないかと予想したという。
やっと、話が見えてきた。
メモに残されたのは同級生の名前らしいと分かり、なんとか連絡を取れる相手はいないかと思っていたら、歓迎会の店であたしの名前を聞いたというわけか。
「あのお友達もT大ですか?」
そんな質問をしていたのは、耳に入っている。メモの内容と一致するか、確認していたのだろう。
でも、そのメモに自分の名前があることについては………全く心当たりがない。
あ、待って、もしかして…
一つの仮定が思い浮かぶ。でも、その前に確認しておこう。
「この、他の人たちには連絡したの?この2人はー」
あたしは、メモに書かれた2人の名前を指した。
「最初の2人ー知ってるよね…?」
愛凪ちゃんはコクン、とはっきり頷いた。
そもそも、隠れウィンガーで話題になるずっと前から、この町はウィンガー関連で名前を知られている。
もう、9年も前になるけれど、市内の小学5年生のクラスで、男の子が2人一緒に、翼を発現した。
体育の時間。校庭。
言い争っていた男子2人の背中に、キラキラと光の粒が集まるのを、その場にいた全員が見た。
真っ白い翼を背中に付けて、呆然と佇む2人を、クラスメートたちもなす術なく見ていた。もちろん、あたしも声も出せずに突っ立っていた1人だ。
寺元信樹と、真壁和久。
それが、最初の2人。あたしたちのクラスの秘密の始まり。
愛凪ちゃんも、この2人の名前は聞いたことがあるはずだ。
もしかしたら、面識もあるかもしれない。
ノッキ、こと寺元信樹は高野くんとも仲がよかったはずだ。
でも、
「いえ、まだ…連絡先も分からなくて」
しょんぼりと、愛凪ちゃんは言った。
できることはしてあげたい。知っていることは、可能な限り教えてあげたい。
だけど、あたしは躊躇した。あまり首を突っ込むと…もう、関わらないと決めていたウィンガーに、深く関係してしまう気がして。
でも、なにも知らない、で切り捨ててしまうには、目の前の愛凪ちゃんの様子はあまりに気の毒だ。
…ちょっとずるいかもしれないけれど、本郷に頼もうか…
というか、本郷のとこに、何か情報が入っている可能性は十分ある。
「3人とも市内にいますよ。連絡先は、本郷のしか知らないけど」
「え…」
愛凪ちゃんが身を乗り出す。
「本郷って、ホンゴウソラヒコのことでしょ?」
指先で『本郷』と書かれた文字を叩くと、愛凪ちゃんの目はめいっぱい見開かれた。
過剰に期待されても困るけど…
「大学、同じだから…たまたま会って…」
あたしは薬学部、本郷は医学部だけど、1、2年生の間は共通の選択科目もいくつかある。
4月の授業が始まって間もなく、英語のクラスで本郷とは再会した。
「何か連絡ないか、聞いてみることもできるけど…」
そう。聞いてみて、高野くんのことを知っていると言われれば、愛凪ちゃんは安心するだろうし、あたしもスッキリする。
知らないと言われれば、あたしの思い過ごしってこと。でも、あたしはできる限りの手を尽くしたことになる。
「お願いします!」
愛凪ちゃんは即答だった。
週末のこの時間には、本郷はたいていジーズ・バーにいる。
実は、ジーズは鮮昧のあるビルの2階に入っているお店。でも、今日は来ていない、とジーズのマスターが言っていた。
何か、用事があるのかもしれない。とりあえず、メールをしてみた。
ーー突然すいません。高野海人くんから、何か連絡来てませんか?妹さんと今、会ってるんだけど、行方が分からないそうで心配してます。ーー
本郷の連絡先に、実際にメールするのは初めてだった。
元同級生とはいえ、別に仲がいいわけではない。どんな文面で送ればいいか、ちょっと戸惑いつつ、指を動かした。
「返事、いつ来るかわからないから、愛凪ちゃんの連絡先、教えてもらっても?」
そう聞いた途端に、あたしのスマホが震える。
ーーリュックに気付かれてないか?なんで、妹と会ってんの?ーー
リュック?眉を寄せて首を傾げてから、思い出した。
向かい側に座っている愛凪ちゃんには、画面は見えない。…見られない方がいい。
『リュック』は、あたしたちで決めた暗号だ。いわゆる隠語。意味は、『翼』。
兄の同級生だから、ウィンガーだって疑われてるってこと?なんで、そこを気にするのか分からなかったけど、
ーー気づかれてないよ。部屋に残ってたメモに、私たちの名前が書いてあったそうです。ちなみに、真壁くんと、寺元くんの名前も。ーー
あっさりと返信した。後で、詳しく聞いてみればいい。
またすぐ、返信が来た。
ーーどうやって、水沢に連絡してきたんだ?ーー
ーーそれは偶然。鮮昧に、歓送迎会で来てたの。私の名前聞いて、思い切って声かけてきたみたいですーー
ーーなるほど。今、どこにいる?ーー
ーージルモダンっていうお店。フラワーセンターの向かいのビル。ーー
ーー分かった。今から俺も行くよ。10分くらいで着ける。カイからの連絡はないけど、話聞きたいから行くって妹にも言ってて。ーー
え…わざわざ来るんだ。まあ、愛凪ちゃんから直接話を聞いてもらった方はいいけれど。
スマホが、もう一度、手の中で震えた。
ーー大人になりかけの時は、面倒見ないとなーー
なんだそりゃ?愛凪ちゃんのこと?
不意に、ドキンとした。これも、隠語だ。
大人になりかけとか、大人になりそうって…ウィンガーになる予兆があるってこと?!愛凪ちゃんが?
多分、注意しながら話をしろって言いたいのだろう。でも、愛凪ちゃんの情報を本郷が知ってるってこと?どういう…こと…?
気がつけば、眉間に皺を寄せて、画面を見つめていた。
やばい、やばい。不信感を煽らないようにしなきゃ。
「なんか…来るって」
本郷が今から来ることを伝えると、愛凪ちゃんも驚いた。
…更にややこしい話になりそうな気配を感じる…
あたしは小さくため息をついた。