マイケルさん
泥酔事件を起こした翌日、未生ちゃんは午前中のうちに帰ってきた。
なんでも、桜木さんが急な仕事で呼び出されてしまったそうで、そのまま土曜日はどこかに出かけるつもりが、ダメになったらしい。
それでも、未生ちゃんは上機嫌だった。
「思ってたより、ちゃんと片付いたお部屋だったよ。あ、でも、女の人が出入りしてる感じはないから、大丈夫。なんかね、趣味のモデルガン?とか、あって。実はサバゲーとかやってるの、知られたくなかったみたい。確かに、ちょっと、えーってなったけど」
サバゲー…?って、なんのことか知らなかったんだけど、要するに、戦いごっこなのね…男子だなぁ…前の彼氏さんとは、ずいぶん系統が違う。
「ナッピ、協力してくれてありがとね。今度の水曜日のゴハン、何がいい?ナッピの好きなの作るから」
自分が酔っ払いすぎたことには触れない。触れてほしくないんだろう。
ごはん当番は、基本は月火があたし。水木が未生ちゃん。週末はあたしはバイトが入るし、未生ちゃんも友だちと出かけることが多いから、成り行き任せ。
というわけで、あたしは水曜日はたいていスポーツジムに寄り道してから帰宅している。
決して仕送りも多くない学生の身分でジム通いなんて、あたしにしてみればちょっとした贅沢なんだけど。そこは、いろいろと事情があったりする。
そして水曜日。
スポーツクラブ『トップサイン』を出たところで、あたしは立ち止まるか、足を早めて立ち去るか、一瞬迷った。
あたしの目に止まったのは、大きな身体の黒人男性と、それと比べれば小学生にも見えてしまうが、実際には普通の男子大学生。
ここで、この組み合わせの2人を見るのは1週間ぶり、くらいだろうか。このパターンは…また、変な話をしに来たんでは…
だけど、こっちの戸惑いなどお構いなしで、2人はこちらへ向かってくる。あたしが出てくるのを待っていたのは明らかだ。
しょうがない。あたしは小さく会釈した。
「ハーイ!凪サン!コノ間ハ、アリガト!」
大きな体から、大きな声が発せられる。白い歯が輝く。グローブのような手をふりながら、大股で(彼にしてみれば、普通の歩き方なのかもしれないけど)近付いてくる。"ノシノシ"という形容詞がよく似合った。
大柄な黒人男性というだけでも目立つのに、そんな大きなリアクションなもんだから、周囲の人の目が自然に集まってしまう。
彼の後ろから付いてくる男性など、まるで存在感がない。
「ミンナ、感動シテマシタ。私モ、興奮シマシタ」
半ば強引にあたしの手を握り、満面の笑みでそう言われても
(いやいや、感動するとこも、興奮するとこもなかったでしょ)
と内心、苦笑するしかない。
好意的な言い方をしてくれているのは分かるけれど。
「あの、どうして、ここに…?」
あたしは、後ろの本郷へ聞いた。
本郷は同じ大学の、同じく2年生。小学校の5、6年生の時も同じクラスだった。
現在、本郷は医学部、あたしは薬学部だけど、ちょくちょく学内で顔は合わせている。
「マイケルと、無料体験でもしようかと思って」
シラッとした顔で、スポーツクラブのドアを指差す。
また、冗談とも嘘ともつかないようなことを…
スポーツクラブとは言っても、ここはボルダリングジムとトランポリンジムが入っているだけで、いわゆる一般的なフィットネスジムではない。子供の体操教室もやってはいるけれど、そんなわけで、利用者層は限られていた。
身長2メートル、体重100キロを超えるであろうこのマイケルさんが、ボルダリングにしろ、トランポリンにしろ体験しているところを想像すると、圧巻すぎる。
あ、でもマイケルさん、元海兵隊とかいう話だから、実はボルダリングなんか得意なんだろうか…
「ハハハ!!」
胸を張り、響くような声でマイケルさんは笑った。
やっぱり、冗談だったらしい。
「私、凪サンヲ、旅行ニ誘イニ来タンデス」
で、更に冗談の続き?……ではなかった。
マイケルさんと、本郷が代わる代わる話すところによると、
「水沢に会ってみたいっていう仲間が、たくさんいるっていうんだ。だけど、全員がみんなが日本まで来られるわけじゃない。だから、こっちから出向いて…」
「凪サンノ、スペシャルツアーデスネ!」
いや、ないでしょ。ダメでしょ。
あたしは速攻で首を横に振った。
「ほら、だから無理だって言ったでしょ」
本郷は、あたしの反応を予想していたらしい。だったら、こんなとこまで連れて来なけりゃいいものを。
「今スグデハ、アリマセン。大学ガ、オ休ミノ時デ イイノデス。考エテミテクダサイ」
マイケルさんは引き下がらない。
「いえっ…あの…ホント、そういうつもりは…」
本郷が、マイケルさんの背中をポンポン叩いた。
「まあ、この間だって、無理に頼んだんだからさ」
その後は、流暢な英語になったから、全部は聞き取れなかったけど、「コイツは特殊なんだから、そっとしておけ」みたいなことを、言ってくれたようだ。
特殊とか、特別とか言われるのも好きではないけれど…ウィンガーの中でも自分が変わった存在であることは認めざるを得ない。
それでもマイケルさんは、
「考エテミテクダサイ」
と、繰り返して去っていった。
ああ、やっぱり軽率だったかな〜
「飛べるぜ」
という、本郷の言葉に、つい心が動いてしまった。本郷も、その誘い方が一番あたしに刺さると、分かっていたんだろう。
去り際の微妙な表情は、あたしへの罪悪感だろうか。マイケルさんが予想以上に食いついてきてしまったことは、本郷も想定外だったらしい。
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「飛ぶっていっても、どのくらい飛べるか個人差大きいだろ。最上級の飛び方を見てみたいって、しつこくてさ。日本代表として、参加してくれないか?」
マイケルさんと共に現れた本郷が、あたしにそんな提案を持ちかけてきたのは1週間ほど前だった。
「日本代表はやだよ!」
「んー、じゃあ、クラス代表ってことで」
「もっと他にいるでしょ。だいたい、見られないで飛ぶって…」
「体育館、借りたんだよ。北ノ原の、ABCスポーツパーク。体育館一棟貸切にして。だから、外を飛び回るわけではないけど、そこそこの広さあるから、結構自由に飛べるぜ」
あたしの顔色が変わったのを、本郷は見逃さなかった。
そうだ、それでノコノコ着いていったあたしは…
翼を出すと、理性のブレーキがガタガタになる。
貸し切った体育館を訪れたあたしは、気がつけば、マイケルさんの仲間達の視線の中心にいた。
興奮したマイケルさんが、目と歯をキラキラさせながら拍手をしていて、分厚い手の平から打ち出される音が体育館の天井に反響していた。
多様な国籍のウィンガーたちに囲まれて、高揚感を感じていたのは事実。今思い返せば、相当なドヤ顔で飛び回っていたんだろうな…
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せっかく、今日は未生ちゃんがカニのトマトソースパスタを作ってくれているのに…
それを楽しみに家路に着く予定が…
なんだかどんよりした気分になってしまった。
ああは言っていたけど、マイケルさんはまた訪ねてきそうな様子だし、他の人にどう言いふらしているか…
本郷は絶対外部に秘密を漏らす人たちではないと言うし、そこは信用していいのかな、とは思うけど。
空を飛べるウィンガーの存在は、報告されていない。全員が、その秘密を守って生活しているからだ、とマイケルさんは言う。
けれど、聞いた限りで世界に50人以上もいるという(うちのクラスメートも含めてね)その全員が翼の存在を隠して生活しているって、あり得るか?
むしろ、アイロウが意図的に飛べるウィンガーのことを隠しているんじゃないかと、考えてしまう。
隠れウィンガーとして8年も生活しているあたしが言うのも、おかしいけれど。
ウィンガーには関わらないようにしなくちゃな〜
飛べるからとか誘われても、断らなくちゃだな〜
長いため息をつきながら、マンションのエレベーターのボタンを押す。
ダメダメ。未生ちゃんの前で考え込む様子を見せてはいけない。
ちょうどよくエレベーター内には誰もいない。あたしは大きく息を吸って、バンザイした。エレベーターの中のこもった空気だけど、肺の中を入れ替えて、身体の中のドヨドヨも一掃するように。
玄関を開けると、予想通りいい匂いがした。未生ちゃんは約束は守る。そこら辺はすごく律儀だ。
「ただいま」
リビングのドアを開け、キッチンの方へ顔を出すと、未生ちゃんの笑顔があった。やっぱりカワイイ。
「おかえり〜」
未生ちゃんが白い箱をその顔の前にあげて見せる。
!。その箱は…
「ドルチナのケーキ?!」
あたしたち、2人のお気に入りのケーキ屋さん。小さなお店で、ケーキの種類は少ないのだけれど、どれでも美味しい。
「協力してくれたお礼だよ〜」
「えー?!やった!」
素直に喜んでおこう。
パスタはもうすぐ茹で上がる。未生ちゃんが、彩りにこだわって盛りつけたであろうサラダがテーブルに置かれている。そして、ご褒美ケーキ。上機嫌の未生ちゃん。
楽しい。今、すごく楽しい。
…いいじゃないか、先のことなんて。何か起こったら、その時、また考えればいい。
多分、それで正解だ。




