逃飛行 2
上昇しながら、あたしは下の様子も窺っていた。
建物の脇から回り込んでいる人たちがいる。あたしたちが、今出てきた窓の方へ向かっている。
さすがに、頭上を見上げる人はいないだろうけど、一刻も早く視界に入らない場所へ行きたかった。
幸い、月も出ていないし、付近は外灯もない。
建物と同じ高さまで上昇したかと思った瞬間、本郷の体勢が崩れた。
白い翼が、闇に溶け込むように霧散する。
そろそろ限界かとは思っていたから、心の準備はできていた。抱えていた左腕をしっかりと掴み直して、そのまま上昇を続ける。
ちょうどいいと言えばいい。黒い翼のあたしだけの方が目立たない。
「行くよ!」
そう言ったあたしに、本郷は頷いたみたいだけど、返事はなかった。
この状況で、恐怖を感じるなという方が無理だ。
それでも、何も言わず黙ってあたしに命を預けたのは、大した男気だ。
あたしも、その心意気に応えなきゃならない。
とりあえずは、下の連中に見咎められない高さまで上昇しよう。
あたしは一気に加速した。
頬を風が撫でる。
本郷的には、撫でるなんて生優しい感覚ではないだろうけど。翼を出しているあたしには、心地いい感覚。
まばたきはほとんどしない。しなくても、平気。
翼を出した途端、体中の感覚機関が全て置き換わっている、と自覚したのは高校に入ったあたりだったろうか。
普通の人間なら、このスピードで飛んで、普通に目を開けていられるはずはない。
こじ開けたとして、あたりの景色を散歩の時のように楽しめるはずもない。
でも、今のあたしは暗い空に輝く星も、それ以上にキラキラした地上の灯りも存分に楽しめていた。
高度を増すごとに、気分は高揚する。
不謹慎なことだけど、風を切って上昇しながら、自然に頬が緩んでしまう。
この気持ちの高ぶりは、背中に翼があるためだけじゃない。
あたしは、飛ぶのが好きなのだ…
本郷を抱えていたとしても、うまくスピードが乗れば、加速するのは簡単だ。
思い切り上昇したのは、下から確認されないためと、着地点を手っ取り早く見つけたかったから。
実のところ、あたしの限界時間も近い。
何しろ、愛凪ちゃんの制御をして、桜木さんをコントロールし、須藤と渡り合い…
他のウィンガーより翼を長時間維持できるあたしでも、今日は目一杯。
着地場所を見つけたら、出来るだけ重力の力に任せ、翼は方向のコントロールと、着地のためのブレーキに使う。
間に合わなければ…あたしの体をクッションにしても、本郷を助けるつもりだ。
そのことに、ためらいも恐怖も感じなかった。
道路が光の流れる川になり、建物がその縁取りとして見えるくらいまで上昇すると、あたしはもう一度目的地を確認した。
点滅する緊急車両の赤色灯は、5、6…もっとある。
大事件になってるな。
かたまって止まっているのが、パトカーや警察車両だろう。少し離れた位置に見えるのは、救急車か。未生ちゃんが、無事保護されていることを祈ろう。
さらに、そこから少し離れた暗い山あいの一角で、ハザードを上げて停まっている車。それが目標だ。
さすがにこの暗さ、この高さではよく見えないけれど、上昇途中に『いちのせ呉服店』のワゴン車であることを確認している。
本郷の車も近くにある。
かべっち、結局待っていてくれたんだ…
申し訳ないと思いつつ、心からありがたいとも思う。
「あそこ」
ぶら下げだ本郷に、顎をしゃくって、方角を示した。
自分が車を停めた場所あたりだとは分かっただろう。
返事はなかったけど、別に構わない。
ハザードの方向へ角度をつけて飛び出すと同時に、あたしは翼を消した。
本郷の声なき叫びが聞こえた気がした。
あたしの感覚ではしばらく(本郷的にはもしかしたら一瞬)翼のないまま自由落下し、また出して方向とスピードを調整する。
いけるか?このまま…いや、いけるかじゃなく、行くしかない。
「もう…少し…!」
もう少し、持ち堪えろ!あたしの翼!
その時、正面から飛んでくる白い影が見えた。
みるみる近づいてきて、形をハッキリとさせていく。
止まるか、上昇するかして避けた方が無難だ。だけど、余計な動きをしている余裕はない。
あ…鮮明になってくる輪郭に、あたしはスピードを落として大丈夫だと瞬時に判断した。
同じ年頃の女性の、ウィンガー。
飛んでる。ならば、十中八九、同級生だとかけていい。
それでも、空中で停止するまでには至らず、全速力で飛んできた女性は、本郷の右腕をかっさらうように掴んだ。
いきなり腕を掴まれた本郷は、首をガクガクさせてる。悪い、ムチウチになるなよ…
なんとかショックを吸収して、一旦止まるために、あたしたちは、慣性の法則のままに、しばらくクルクルと回転した。
おお、あたしたち、なんか息の合った動きしちゃってるぞ。ちょっと…楽しい。
動きがだいたい止まると、女性はあたしの顔を見て満面の笑みを浮かべた。
「迎えに来てやったわよ」
ちょっと高飛車な口調。自信たっぷりの微笑み。そして、聞き覚えのある声。
なにより、アーククラスのウィンガーというだけで、条件は限られている。
「…コミさん?!」
思わず、顔を覗き込んでいた。
予想通り、とはいえ、ずいぶん久しぶりだからこんな顔だっけ…うん、間違いないよね、と自問自答してみる。
「イェイ!久しぶり!」
若干の逡巡があるあたしに対して、コミさん、こと小宮山暦美はハイテンションの笑みを見せる。
ああ…でも、そのテンションに応えてる暇はない!
「悪い!あとは頼んだ!」
あたしはそれだけ言うと、本郷から手を離し、空中で体勢だけ整えた。
時間、ギリ。
翼を消すと、あたしはハザードランプへ向けて、一直線に落下した。
コミさんなら、あとは任せて大丈夫。
これほど心強い援軍はない。
*********
正直、小学校時代、コミさんとはそれほど仲良くなかった。
女子にはありがちな、『別のグループ』に属していたから。
コミさんは、いわゆるクラスの中心的存在。女子はもちろん、男子にも友達が多くて、クラスの話し合いの時には積極的に発言するタイプ。
あたしは、いつも決まった友達と遊び、教室内では可能な限り目立たずにいるタイプ。
ウィンガーにならなければ、話すこともほとんど無く過ごしていたと思う。
お互いウィンガーになってからは、よく話しかけられて、休み時間なども遊びに誘われることが多くなった。
『コミさん』と呼ぶようになったのもウィンガーになってからじゃなかったかな…
クラスの大半が、いつの間にか『コミさん』と呼んでいたけど、あたしはいつからあだ名で呼んでいいのか分からず、ずっと『小宮山さん』と呼んでいた。
「コミさんとか、コミって、呼べばいいのに」
そう言ったのは、コミさんと仲の良かった
『吉川さん』で、なんかコミさんと呼ばないのがダメ、みたいな言い方だった。
ちょっとショックだったのを、よく覚えてる。
結局、そこから吉川さんのことも『ミミちゃん』と、呼ぶようになった。
吉川美実ちゃん。なぜか、誰も『みのりちゃん』とは呼ばなかった。
確かに、あだ名で呼ぶようになって、前より仲良くなれた気はしたけど。
でも、誰もあたしのことは、下の名前で呼ばなかったんだよね…
正直、当時はウィンガー同士、仲間意識も手伝ってよく一緒にいたけれど、絵州市を離れたあたしを、友人として認識してくれている同級生がどれくらいいるだろうと、思っていた。
思っていたんだけど…
本郷を始めとして、かべっちも、カイも、そしてコミさんも、フレンドリーだなぁ…相当、ブランク開いてるんだけど。
*********
地面が近づいてくる。
翼が無いときは、薄目を開けているのが精一杯だ。しかも、暗いし。
なんとか距離感を確認しつつ、翼を出す。
一気に様子が把握できた。
あれ、車のそばにいるの、かべっちだけじゃない。
…マイケルクラスのウィンガー、女子。
毛先の方だけピンクに染めたボブヘアの、かなり目立つ外観。
…誰?
彼女の方は当然のように、あたしを認識しているらしく、大きく両手を振っている。
ただ、その顔は悲鳴をあげる一歩手前といった形相。隣のかべっちも、同様。
パシュン!!急制動をかけると、耳元で空気を切り裂くような音が鳴った。
こんだけ勢いよくブレーキかけたって、翼を出してるから、なんてことない。
ちょっとイタズラ心も手伝って、忍者が参上したみたいな着地を決めてみる。
「はわわわわっっ」
「うわっ!おおおお…」
なんかよくわからない雄叫びを上げながら、かべっちとピンクボブが駆け寄ってくる。
あたしが、マジで地面に突っ込むのではないかと心配して、あんな顔をしていたのだと、やっと気付いた。
ビビらせてごめん!確かにちょっとギリギリだった。
「水沢さん!!もぉぉぉ!マジ、ヤバいかと思ったよ!!」
あ…やっぱり、同級生の誰かだよね?
ピンクの髪を振り乱しながら近づいて来られても、まだあたしは彼女が誰か思い出せない。
カーキ色の、男物にも見えそうな大きめジャケット、黒のワイドパンツ。そのパンツも、ちょっと変わった布の使い方をしていて、斜めや曲線、ジグザグの縫い目が見える。
髪の色だけじゃなく、装いもかなり個性的。
こんな子、クラスにいたか……いた!!
突然、天啓のように彼女の正体が判明した。
「み、ミミちゃんまで、いたんだ。何しに来たの」
わざわざ来たであろう相手に、何しに来たというのも失礼だけど、今のあたしは思ったことが、口をついて出てしまう。
すごいカッコしてるな、とか言わなかっただけいい。
ミミちゃんは…昔のミミちゃんはこんな服着なかったし、こんな化粧も、もちろんしていなかった。
「コミと一緒にいたら、かべっちが連絡くれて〜いやぁ、もう、水沢さん、変わんないねぇ!」
喋り方も、こんなハイテンションだったっけか…?
「ミミちゃんは、ずいぶん変わったね!」
翼はもう消してたけど、そう言い返してしまったのはご愛嬌。
ミミちゃんは、むしろ嬉しそうに笑った。
「ほら、こっち!急いで」
あたしの手を取って、ワゴン車へ引っ張って行く。
振り返ると、本郷たちも無事、地上にたどりついたのが見えた。




