カイ
愛凪ちゃんが休んでいる部屋はすぐに分かった。
階段を上がってすぐ右側の部屋。襖が半分開いているし、その向かいの部屋は入り口の襖の前に段ボールやら、雑誌やらが積み重なり、出入りしていない部屋なことは一目瞭然だった。
部屋の中を覗くと、しょぼくれたカイと目があった。
昔は、もっとクリクリして、次はどんなことをしてふざけようかと、そんなことしか考えてなさそうな、でもいつでも楽しそうな目をしていた…
カイの隣にいた本郷が、無言であたしに頷いてみせる。
なんとなく、愛凪ちゃんは大丈夫、という意味だろうと解釈した。
何も言わず、窓のそばに腰を下ろすあたしに、2人とも何も言ってこないのは、下の会話が聞こえていたからだろう。その気遣いはありがたい。
六畳の部屋は、全体的に煤けて、くたびれた空気が漂っていた。
まあ、この家自体が、昭和の頃の映画に出てくる、おじいちゃんの家みたいだ。時代というか、時間の流れから取り残された空間。
天井には、紐を引っ張るタイプの照明。壁にはいつから貼られているのか、すっかり色褪せたアイドルグループのポスター、写真の入っていないフォトフレーム。
部屋の隅に押し付けられるように積み上げられた、段ボールやクリアケース。
雑然とした、少し埃っぽい部屋。でも、不思議と気持ちは落ち着く。居心地は悪くない。
自分のつま先を見つめながら、ゆっくり息を吐く。だいぶ落ち着いたかな…
部屋の真ん中に敷かれた布団で、愛凪ちゃんはぐっすり眠っていた。
枕元に正座したカイは、泣き出しそうな顔のまま、妹の顔を覗き込んでいる。
布団だけは、結構新しいものらしい。
シーツも布団カバーも、新品の張りのある色合いをしていた。
その布団からはみ出た愛凪ちゃんの指先が、汚れているのが目に入った。
爪に土が入り込んでいる。暴れ回った時に、地面に爪をたてたかしたんだろう。
こういう時、男子は気が利かない。
「ねえ、タオルかおしぼり借りてきて。泥だらけだよ」
カイはそう言われて初めて、妹の手や顔が汚れていることに気づいたらしい。
カイが、未だにおぼつかない足取りで階段を降りて行く音を聞きながら、あたしは目を閉じた。
ナオさんが何か喋っている。
太いマイケルさんの声がそこに被る。
集中すれば内容も容易に聞き取れるけど、あたしは聞きたくなかった。
今は、とにかく自分の感情をコントロールしたい。
カイが戻ってくる足音がしたので、目を開けると、眉間にシワを寄せている本郷が目に入った入った。
考え事か、何かに気を取られているのか…
部屋に戻ってきたカイに手を差し出すと、一瞬戸惑ってから、
「ありがとう」
と、濡れたタオルを渡された。
カイが右手を、あたしはそっと、ほっぺたについた土汚れを拭う。
「なんか…あの外国人、とんでもない話、してたぞ」
妹の手を取りながら、カイは本郷を振り返り、なぜか小声で言った。
本郷はさっきと同じ難しい顔をしたまま、
「だいたい、聞こえてたよ」
と、視線を部屋の入り口に走らせた。
襖は開けたままだ。
ああ、下からから聞こえてくる会話に集中していたんだな、とあたしも気がついた。
カイも同じくらい耳はいいはずだけど、妹の容体に気を取られて、それどころじゃなかったんだろう。
ドッドッドッ……
響くような足音が遠ざかっていく。マイケルさんが、出て行ったらしいと、容易に想像できた。
本郷がずいっと前に体を乗り出して、愛凪ちゃんの手首に、それから首筋に触れる。
「落ち着いてるな。どこも怪我もなさそうだし。オレ、一回、下に行くわ」
それから、あたしの方を見て、
「落ち着いたか?」
と聞いてきた。
クールダウンしたかどうかの確認というより、下に行って、一緒に話を聞け、という意味だろう。
まあ、確かに後はここにいても仕方ない。
妹がウィンガーにならないようになんとかしてほしいという、カイの願いも相談も、今となってはどうしようもない。
あたしが頷いて立ち上がろうとすると、
「あ、あのさ!」
カイが声を上げた。
正座の姿勢から手をついて、亀のようにワタワタと体の向きを変える。
「ありがとう!ほんとに…ありがとう!」
突然のことに呆然とするあたしの前で、カイは深々と頭を下げた。どん、と畳に額の当たる音がする。
「えぃ…い、いやいや…」
思わずもう一度座っちゃったじゃないか!
反射的にパーにした両手を振りまくるけど、顔を伏せたままのカイに見えるはずもない。
「水沢が来てくれなきゃ、ほんと、どうしようもなかった!ほんとに、ほんとに助かった!」
「いや…あの、そんなつもりは…」
確かに、愛凪ちゃんの翼を抑え込めたのは、あたしの能力かもしれないけど…
でも、あたしがいなきゃいないで、あそこにいた人間でなんとかしていたかもしれないし…
助けを求めるあたしの眼差しに、本郷は首をすくめて苦笑いした。
「同級生同士、ウィンガー同士、そこまで思い詰めるなって」
本郷に背中を叩かれ、やっとカイは顔を上げた。
「結局、オレ、みんなに心配かけて…迷惑かけただけで、なんも出来なかった…ほんと、ごめん…」
「もう、いいって。愛凪ちゃん、おおごとにはならなかったんだし」
ゴシゴシ目を拭うカイを見ながら、そう言って、微笑んでみせようとしたけど、
「あのな、カイ」
そう言って本郷がすごく真面目な顔になっていた。
ただ、張り詰めた感じじゃなく、穏やかになだめるような。ああ、そう、お医者さんっぽい顔。さすが…
本郷はがっしりカイの肩を掴んで、グイグイ揉み始める。
「大変なのは、これからだぞ。妹、あの状況で、オレ達の翼のことを覚えてるかどうか分からないけど、覚えてたら…」
肩揉みしながら、ちょっとふざけたような口調だけど、本郷が言わんとしていることの重大性は、あたしも分かる。
カイはまた泣き出しそうな顔を青ざめさせて、本郷に向き直った。
「だからぁ、」
カイが口を開く前に、本郷はニヤリと笑ってその言葉を言わせなかった。
「おまえのフォローが大事になんの!できることなら、オレらも今までの生活続けられればありがたい。ま、登録されたらされたで、オレはいいけど」
そう言って、あたしをチラッと見る目には、いろんな感情が見てとれる。
ああ、『登録』かぁ…
奇異の眼差しが自分に集まることは容易に想像できた。生活が一変することも。
ま、登録されたらされたで、あたしも別にいい。ただ…洸は…受け入れるかな…
「できる限りのことはする!愛凪も説得する。お前たちを売るわけにはいかない!」
さっきまでのしょぼくれた表情が嘘のように、カイの目に光が宿った。
売るって、そんな大袈裟な…と思う反面、確かに本郷の活動が制限されることは、隠れ天使として生活している同級生たちに、大きな影響があることにも思い至る。
カイも多分、同じようなことを心配している。
「どういう風に説明するかは、任せるよ。なるべく、うまく収まるように頼むわ。ただ、無理はしなくていいからな」
本郷はあくまで気にしていない風を装って、カイの背中を叩いた。
悲壮感すら漂う表情で、カイは何度も大きく頷く。
あたしは、その顔が悲しくて仕方なかった。




