転愚
まだ十歳になって間もない頃のカブトは、どこか遠くの閉鎖的な村で暮らしていた。通信機器や様々な設備が充実した現代においてはあり得ないようなところだ。
周囲を山で囲まれた日本のどこかにある村。偶然この時代まで発見されなかったその場所は、不運なことに大飢饉に見舞われる。
しかし村の外へ出ることに怯えた老人たちは苦渋の策として、『呪い』の力に頼ることにした。
たった一人にあらゆる災厄、あらゆる負の感情を押し付けるという呪い。カブトは親友を庇ってその呪いを受けた。
そして結果的には親友が村の全てを犠牲にして呪いの依代を破壊し、カブトに降りかかった呪いの大部分はなくなった。だがそれでも呪いは完全には解けていない。
この『転愚』の呪いを解く方法を探ること。これこそがカブトが放浪する目的だった。
「――――」
夕日も沈み、暗くなった部屋。カブトは左目を閉じ、紅い右目の焦点を外す。そうすることで本来見えるはずのないものが見えた。
『転愚』。呪いの名を取り、そう呼ぶことにした自身の異能。
降りかかった呪いではあるが、あながちデメリットだけとも言えなかった。
その能力のひとつに、負の感情を敏感に感じ取る力がある。こうして焦点を外してやればソナーのように近くの負の感情を拾うことができるのだ。
「――つっ」
だがそれは諸刃でもある。負の感情を拾い、それを心に吸収するということは、それと全く同じ感情になることと同義だ。
例えば怒りを拾えば苛立つし、悲しさを拾えば泣きたくもなる。死にたいと思ったり、殺したいと思ったこともあった。
だから普段は力を極限まで抑えているし、滅多に使うこともない。それでも今日街を歩いた時に頭がクラッとしたのは、住民全員の通り魔に怯える負の感情が大きすぎたからだろう。
この力を使い、周囲の殺意を探知する。
殺意とは人が何かの命を奪おうとする時に必ず抱く感情だ。蟻を踏み潰す時でさえ、故意にやろうとするなら僅かに抱く。
しかし右目にすべての意識を集中させ、カブトの感知できる最大範囲を探っても、とても人を殺すような殺意を探知することはできなかった。
「今日は現れないのか?」
確かに昼夜問わないという情報もあった。宿に到着してからずっと探っているとはいえ、日が沈んでから犯行に及ぶとは限らない。
もしくは今日出会ったあの高校生が本当に猟奇殺人犯ウィードであり、カブトがそれを暴いたことで鳴りを潜めているのだろうか。
「――――」
しかしその時ふと、それら以上に厄介な可能性が思い浮かんだ。
それは犯人が猟奇的な故に浮かぶ可能性だ。普通ならばまずあり得ない。
だがそれがウィードと呼ばれる殺人鬼だとしたら、あり得る可能性だった。
正体不明の彼に名付けられた名前。ウィード、つまり――。
「――雑草」
故意に蟻を殺す時、普通は命を奪うという意識を誰しもが持つ。しかし雑草を踏んだ時、あるいはそれを抜いた時、そこに殺意はあるだろうか。
ウィードは遺体の上に献花のように雑草を乗せる。それが例えば、その人物に対する評価だったのだとしたら。
殺す人間のことを本気で雑草のうちの一本としか考えて無かったとしたら、もしかすればそこに殺意は湧かないのではなかろうか。
「負の感情を一切持たずに、相手を殺すことができる」
それはカブトにとっては天敵だ。
暗殺を極めた者でさえ、その奥底に眠る殺意をかき消すことはできない。そしてそれを探知することのできるカブトは、例え彼らと相対したとしても戦うことができた。
しかし仮に敵が全く負の感情を持たないのであれば、カブトは不意を突かれれば命を落とすこともあるだろう。
湧き出す恐怖。その元は呪いの影響だろう。やめておけ、ここで手を引いておけとカブトを唆す声すら聞こえてくる。
「けどな」
カブトは呪いに感情を支配されていた。常に流れ込んでくる負の感情は無意識すらも犯し、意識していても口の悪さは直らない。
だからこそ、カブトには徹底していることがあった。
自身を犯す呪いに向けて告げる。
「お前らが否定することを、僕は敢えて行う。それしか、僕が正しく生きる術はない」
負の反対は正。だからこそカブトは自分の中に流れ込む負の感情を信じないことに決めていた。
常に心の声とは反対の選択肢をとればそれが正しいことになる。だから湧き出してくるこの恐怖も、この怒りも、この殺意も、何もかもを無視する。
無視して、事件へ関わっていく覚悟を決めた。
「こうなりゃ、しらみ潰しだ」
犯人は殺意を持たないと仮定する。ならば殺意を探知しても意味はない。真に探知するべきは、被害者たちの恐怖。
命の危機を感じるような恐怖さえ見つけられれば、そこにウィードもいるはずだ。
そうして神経を研ぎ澄ます。付近のあらゆる住宅街に視野を広げ、俯瞰して街を見下ろす。
そこに育まれるすべての恐怖を見逃さない。たとえ自分の心が呪いにより恐怖を吸収しすぎても、この心が折れそうになってもやめない。
怖いか。怖いとも。自分が殺される危険があるのだ。敵の場所は読めないのだ。
心音が駆け足に鼓動を刻む。じわりと、頬を伝う冷や汗を感じた。自分の中で得体の知れない恐怖がどんどんと増幅されている。
だがそれでも必ずウィードを見つけ、この事件に幕を下ろす。これだけカブトの内面が関わることを否定してくるのだから、この選択が正しいはずだった。
「見つけた」
瞳の焦点が合う。
それはつまり、死に怯える者を発見したということだった。
カブトは羽織りを着直し、窓を大きく開ける。わざわざこんな時間に玄関から出るのもおかしいだろう。涼子にも気付かれたくない。
カブトは自身の背に力を込めた。
それだけで内側に溜め込まれていた呪いが溢れ出すように、どす黒い翼を形作る。溢れた呪いは閉じ込められていた場所から解放されたことを喝采するように、肩甲骨のあたりから放射された。
これもまた『転愚』の呪いを受けたカブトに許された異能。きっと目の前の恐怖から、災厄から逃れるために与えられた力で、己の信ずる正しさのために空を駆ける。
「僕はまさに呪われてるな。こんな、醜い力」
見た目も心も、真っ当な人間と比べれば圧倒的に歪だ。もしも涼子がこの姿を見たなら、なんと言うだろうか。
自嘲気味な笑みが浮かぶ。思い出されるのはこの姿を見た一般人にかけられた言葉だ。
化け物、と。そう言われたことがあった。
涼子もきっとそう思うのだろうなと、カブトは考えた。
「――それでも、僕はこうするしかない」
湧き出す感情に従えば自分は間違えてしまう。だから例え周りに恐怖されようとも、排斥されようとも、正しくあろうとするしかなかった。
その迷いを移動速度を上げることで振り切り、現場に到着する。
何の変哲もない住宅街。逃げる被害者と追いかける加害者との間に、カブトは獲物を見つけた鳶のように急降下した。
そして加害者を踏みつけるようにして着地すると、その一瞬で翼をしまい、被害者の方へとひと息に飛んだ。
「大丈夫か?」
「あ、はい……」
被害者の女は余りの出来事に意気消沈したようだ。そしてついに緊張が途切れたのか、それまでの恐怖が溢れるように腰が抜けてしまった。
カブトはその肩を支えながら優しく地面へ下ろしてやる。仕事帰りらしいタイトなスカートが砂利で汚れた。
逃げる途中で走りにくい靴は脱ぎ捨てていたのだろう、裸足になっており暗い色のタイツはボロボロになってしまっていた。
「怪我はないか?」
「あ……づぅ……!」
火事場の馬鹿力というか、アドレナリンが出ていたから痛みを忘れていたのだろう。よく見れば身体には何箇所か切り傷があった。よく逃げたと思いながら、カブトは彼女に手を向けた。
そして彼女に降りかかった『災厄』を、呪いに変換して肩代わりしてやる。傷は黒いモヤのように変化し空中を漂った後、カブトに吸い寄せられた。
「あれ、痛みが……」
「これで大丈夫だ。こいつに見覚えは?」
カブトは気絶して倒れている加害者の男を指差して尋ねた。うつ伏せになっていることや帽子をかぶっていることもあって詳しい風貌は見えないが、パーカーにサイズの大きなジーンズと、ヒップホッパー風のカジュアルな格好をしている。
女はその男のことを見て、吐き捨てるように言った。
「元カレです! 自分から浮気したくせにこんなの、最ッ低……!」
「そうか、知り合いだったんだな?」
「え? ええ……」
猟奇殺人犯ウィードの正体がまさかそんな小物ということもあるまい。ただの痴話喧嘩であり、猟奇殺人とは別件だったか。あるいは――。
「わかった、今日はこれで帰れ。警察へは僕から届けておく」
「あ、ありがとう……ございました」
別の可能性に思い当たり、カブトは女を帰らせることにする。すでに抜けていた腰も回復したようで、女は立ち上がると頭を下げて帰った。
それを待っていたとでも言うのだろう。気絶している思っていた男が笑い出した。
「最低、だって! 笑えるね!」
「なんだと?」
「あの女、浮気されたくせに心の中では未練タラッタラだったみたいだよ? ボクさぁ、それが面白くって、くくく……」
男はうつ伏せのまま笑う。その口調に違和感があった。
声質は男のもので間違いないだろうが、その情けないような口調は少なくともこの男のような風貌からは想像できない。
「お前は……」
増して、まるで被害者の心を読んだようなその口ぶりは。
「だ〜から簡単に襲われちゃうんだよなぁ。久しぶりって声かけただけで、少しも疑わないんだから!」
男は顔を上げ、服の袖で顔を拭う。簡単なメイク落ち、その下に見覚えのある顔が現れた。
「さて、ボクはウィード。ただの雑草だよ」
被っていた帽子を投げ捨てる。これで完全に、頭は先程出会った高校生の見た目だ。やはりウィードの正体は間違っていなかった。
「お前……!!」
「おおっと、待ちなよ」
カブトは呪いに付随して得た別の能力で戦闘を始めようとするが、ウィードに止められる。その手にはどこで手に入れたのか拳銃が握られていた。
「落ち着けって、まずはオレの話を聞けよ。話したい気分なんだ」
段々と気分が高揚してきたのか、ウィードの一人称が変わる。その変化の意図を考えるよりも、目の前の状況を打破するための方法を考えろと言い聞かせた。
「ヒトって馬鹿だよなぁ。大切な人間と話す時、そこには必ず隙ができる。それを突かれちゃえば、ボクみたいな雑草にも簡単に殺されちゃうんだよね」
「この、クズ野郎が……」
途端に溢れ出すのは恐怖よりも怒り、そして殺意だった。こいつは生きていてはならない。ここで殺さなければならない人間だ。そんな圧倒的な殺意が湧き出す。
「おいおい、オレは他人よりちょっとだけ物真似が上手くて、ちょこっとだけ他人の心が読めちゃうだけだ。それだけのボクに『そんな力』向けたらダメじゃないかなぁ?」
「お前、僕の力を……!!」
カブトは戦闘用の特殊能力として『神通力』を使うことができる。それは言わば念力であり、離れた場所に力を発生させることができるのだ。
ウィードはそういう力がカブトにあるということを見抜いている。だから先に拳銃を構えたのだ。
さすがに神通力を持ってしてもトリガーに指がかかっていては拳銃の方が早い。そのことに歯噛みした。もっと早く、それこそ最初に割り込んだ時点でこいつを殺しておけば。
「――ダメだ、それは」
「キミ、面白い精神性をしてるね。ああ、オマエ面白いよ、すごく!」
負の感情がウィードを殺せと訴える。それはつまり、カブトの主義に照らし合わせると、ここで彼を殺すことは『正しくない』ということになる。
だから殺せない。死なない程度に止める必要がある。そうしなくてはならない。
そんなカブトの心を読んで、ウィードはさらに楽しげに嗤った。
「オマエの心の中はチグハグだ。その強迫観念はボクより酷い。ワタシから見ても、はっきり言って狂ってると思うよ」
「なんだと」
「――それだけ怯えてて、それだけ怒っていて、それだけ殺したいのによく、正しくあろうなんて思えるよね。それは、狂ってる」
「――――」
ウィードにはわかるのだ。
カブトにかけられた呪いの声が。それによってカブトが常にどんな感情を抱いているのかが。
例えば知らない人と話すのは緊張するし、怖い。何でこんなことをしなくてはならないのかと苛立ち、相手を嫌悪する。だからそいつを殺してやりたくなるのだ。
常にそういう感情が湧いてしまうのがカブトにかけられた呪いの本当の恐ろしさだった。その感情を抑えることはできないから、湧き出す感情のすべてを信用しないということしか、真っ当に生きる方法がない。
図星だった。完璧に、カブトの抱えるものを暴かれた。この話題は余計に心の闇を広げるだけであり、だからこそ話題を変えることを余儀なくされる。
「なにが、目的だ」
「んん〜」
カブトを殺すことならいつでもできる。会話も、そろそろ充分に楽しんだ頃合いだろう。
ウィードは何の目的があって無差別殺人を繰り返し、何のためにカブトを未だ生かすのか。
目の前の狂人にはっきりとした目的があるのか、そもそも目的意識というものが存在するのかもわからないが、カブトはその目を睨みつけた。
だが視線を受けて、その強烈なまでの殺意を叩きつけられてなお、ウィードはヘラヘラと笑い続ける。
「じゃあさ、ゲームでもしようか」
「……は?」
「ボクと遊んでよ、カブト」
可愛らしく小首を傾げて言う。その純真無垢を映したような瞳には、好奇心という名の狂気しか感じられなかった。