空手に生きるきっかけ
*白雪姫、というタイトルですが、他の童話のストーリーも含んでいます。
些細な出会いが、人生を一変させることがある。
この物語の主人公である彼女にとって、6歳の時に親切な魔女に出会ったことが、まさしくそのような出会いであった。
当時の彼女は絶望に打ちひしがれていた。最愛の母を流行り病で失ったのである。父は優しい男であったが、彼も心に大きな傷を負っていた。貴族の次男坊であった父は、平民の妻を見初めると、大喧嘩の末実家を飛び出し、貧しいながらも幸せな家庭を築いていた。しばらくして娘が生まれると、それが転機となって実家との関係も改善の兆しを見せ始め、今では実家で毎年行われる年始の挨拶に顔を出せるようになっていた。すべてが順調といった時に、妻を失ったのは男にとって不幸であった。彼は実家に頭を下げて幾ばくかの金を融通してもらうと、妻のためにささやかな葬式を営み、残りは妻の実家にくれてやった。妻を失った悲しみに浸る暇もなく、あっという間に一か月が過ぎた。その間、娘を構う余裕は男にはなかった。
6歳の娘にとって、母の死は世界の終わりと同義であった。父と、母と、そして娘の自分。この三人が彼女にとって世界の全てであり、他のことは全てとるに足らないことであった。母が亡くなってからの一か月、父が忙しくしている間、彼女は一人孤独と戦っていた。
「ここかしら。」
そんな彼女の家に、一人の来訪者がやってきた。見たところ20代後半といったところであろうか。修道女のような恰好をしているが、その服は全て黒であり、背の高い三角帽子を被っていた。彼女は少し離れたところからその家を認めると、手に持っていた杖を振った。彼女は魔女であった。今、彼女は透視の魔法をかけて、一人家にいる哀れな少女の様子を覗き見た。
少女は母がよく読んでくれた童話の本を抱えてじっとしている。暗い目が、彼女が深い絶望の中にいることを示していた。そんな少女の様子を見ると、魔女は放っておけなくなった。本来なら、少女を助けるのは10年後であるけれど、今この瞬間、彼女は助けを必要としている。あのような目をする人間は悲惨な選択をしかねない。そんなのは自分で最後にしなければ。魔女はそう思うと、少女の家をノックした。ややあって、少女がドアを開けた。
「こんにちは。」
魔女は優しく少女に語り掛けた。少女は答えない。
「あのね、私、あなたのお母さんの友達なの。少し上がっていいかしら?」
もちろん嘘である。だが、こんな少女を放っておくぐらいなら、喜んで嘘つきとなると魔女はとうに腹を決めていた。お母さん、という言葉が効いたのか、少女は黙って道を開けた。
「ありがとう。」
そう言って魔女は家に上がった。家の中は掃除がされていないためか雑然としており、竈にはしばらく火をくべられた様子がない。これでは少女の精神状態だけでなく、栄養状態も心配である。
「私ね、天国のお母さんに頼まれてここに来たの。あなたの様子を見てきてほしいって。」
これももちろん嘘だ。
「今からね、あなたの好きなものを作ってあげるわ。何が食べたいのか教えてくれる?」
魔女の言葉に、少女は答えた。
「お母さんのシチューが食べたい。」
「そう、じゃあシチューにしましょう。お母さんのシチューはどんな味だったかな?どんなお肉やお野菜が入っていたか、思い出してみて。」
この魔女が得意とするのは、想像を具現化する魔法であった。
「いい、お母さんがどんな風にシチューを作っていたかイメージしてね。さあ、いくわよ。」
そう言うと、魔女は杖を振るった。すると、どうしたことか、玉ねぎやじゃがいも、ニンジンに鶏肉といった食材がどこからともなく現れ、包丁がひとりでに食材を切っていく。切られた食材は順番に鍋に入っていき、ぐつぐつと煮込まれていく。少女は目の前の光景を驚きに満ちた目で見つめている。
「待っている間に、掃除もしちゃいましょう。」
魔女が再び杖を振ると、今度は箒や雑巾が動き出し、部屋の中を掃除していく。汚れた洗濯物は洗濯場まで飛んで行って自ら洗濯されると、庭の物干しに整然と干されていく。シチューが完成したときには、少女の母が生きていた時のように、家全体が清潔になっていた。
「さあ、シチューができたわ。どうぞ、おあがりなさい。」
少女はシチューを食べると目を見開いた。まさしく母の味だった。食事を終えた彼女の眼は、もう先ほどのような絶望に染まったものではなかった。魔女は少女の様子を見ると、満足げに頷いた。
「良かったわ。あなたが幸せでないと、きっとお母さんが悲しむと思って、ちょっとだけお手伝いしたの。」
「あの、ありがとうございました。」
少女が礼を言う。
「いいのよ、私がしたくてしたのだから。それより、聞いて。私があなたに会うのは、本当はもっと後だったの。だから、私と会ったことは誰にも言わないでね。」
少女は、どういう意味か分からなかったが、とにかく誰にも言わないことだけは承知した。
「約束します。」
「よろしい。」
魔女は胸元から懐中時計を取り出して時間を確認すると、少女に向かって言った。
「さて、私はそろそろ行くわ。でもその前に伝えておくわね。これからあなたはつらい目に合うと思うの。でも、負けてはだめよ。誠意を尽くせば、きっと報われるわ。どうしてもつらくなったら、私のことを思い出して。10年後、私たちはもう一度出会うはずよ。」
「分かりました。頑張ります。」
「最後に、おまけ。女の子なのだから、たまにはお洒落しなくちゃね。魔法であなたの服を1分間だけどんな服にでも変えてあげるわ。どんな服がいいか考えてみて。あなたは美人だから、きっとどんな服でも似合うわよ。」
そう言われ、少女はどんな服がいいか考える。ブルーのドレスにガラスの靴なんてどうだろう?そんな彼女の脳裏には、ふっと別のイメージが湧いてきた。母が元気だった頃に着ていた、純白の服のイメージ。
「準備はいい?それ!」
魔女が杖を振るうと、少女の服はたちまちに姿を変えた。少女の純真さを映し出すかのように純白の服に、彼女の意志の強さを示すような漆黒のベルト。それは、紛れもなく道着だった。魔女は、想像したのとあまりに違うので面食らってしまった。
「あらあらあらあらあらあら、ドレスとか、そういうのを想像していたのだけど…。もう一回だけやりましょうか?さっきまで考えていた、青いドレスなんてきっと素敵よ。」
魔女が魔法で作った鏡を見せながら提案すると、少女は鏡を見るや、自分の体を抱きしめていった。
「いいの!これでいい!この服がいいの!」
少女にとって、道着は母の強さと優しさの象徴だった。道着を着た鏡の中の自分は、驚くほど母に似ていた。自分の体を抱きしめながら、少女は言った。
「本当に、ありがとうございます。母は、今でも私と一緒にいてくれているんですね。」
思っていたのとは違ったが、少女は喜んでいることだし、魔女はひとまずこれで満足することにした。
「そう、喜んでくれているのならいいわ。それじゃあ、私は行くわ。10年後にまた会いましょう。」
そういって、魔女は去っていった。
魔女が去って間もなく、魔法が切れ、元の服に戻った。しかし、少女の心は晴れやかだった。母は自分の中にいるのだ。そう思うと、力が湧いてくるような気がした。
その日、父が帰ってくると、彼は驚いた。家はきれいに掃除され、娘がシチューを作って待っているなんて。
「お母さんのシチューを思い出して作ってみたの。お父さん、食べてみて。」
野菜の切り方はいびつだし、小麦粉がところどころダマになってはいるが、それでも男には、確かに妻のシチューだと感じられた。
「驚いたな。お前がこんなに料理上手だったなんて。お父さんは嬉しいよ。」
男は娘の頭を優しくなでながらほめる。
「しばらく構ってあげられなくてごめんな。今日であいさつ回りは済んだから、明日から2、3日は家にいるつもりだ。何かお父さんにしてもらいたいことがあったら言ってごらん。」
「お父さん、お願いがあるの。」
「なんだい?」
男は、こんなにもいじらしい娘の頼み事なら、どんなことでも聞いてやろうと思った。
「私、空手を習いたいの!」
この少女の願いは、父といえども予想外だった。