呪いと魔法と恋の物語
日が出ている間は男、夜は女になる呪いをかけられた主人公が、身元不明のけが人を助けたことから始まるラブストーリーです。二人は魔法、宮中争いなどドロドロに巻き込まれる予定です。ボーイズラブという程でもないと思いますが、そういった描写もある予定なので、苦手な方はご注意ください。
今回はプロローグです
「はぁ、はぁっ、はっ……」
リディアスは馬一頭がやっと通れるほどの細道を鋭い針葉樹の枝に何度も顔を傷つけられながら、それでもスピードを緩めることなく駈けていた。少なくとも半刻以上は馬を走らせ続けているはずなのだが、一向に森を抜けない。異様なほど熱を帯びた傷口に、みぞれを含んだ雨が吹き付けた。興奮で麻痺していた感覚が寒さによって徐々に鮮明になっていき、馬の振動が身体に伝わるたび、肉をえぐられるような痛みが襲って来た。身体の感覚がはっきりとしてくる一方で、思考は靄がかかったように不鮮明だ。
自分が思っていたよりも傷口は深く、出血量も多いらしい。これ以上夜が深くなれば馬を走らせるのも難しいだろう。それまでに雨風をしのげる場所を見つけなくては。この森にも狩りに使う小屋くらいあるだろう……いや、この森には既に数百の追っ手が放たれているはずだ。今夜中に森を抜けなければ確実に捕まる。血の足らなくなった鈍い頭を全力で回転させ、激しい痛みに小さく喘ぎながら必死に手綱を握り続けた。馬はリディアスの期待に応えるように、激しい雨が降りつける凍ったような空気の森を真っ白な息を大きく吐きながら凄まじい速度で駆け抜けた。塔のように背の高い木々の群を抜け、遮られていた月の姿をようやく捉えた時だった。馬は突然後ろへのけぞり、リディアスは危うく地面に叩きつけられるところだった。
「おい、一体どうし……」
なんとか馬を落ち着かせ、体制を立て直し顔を上げると、そこには月の光を受けて輝く、ターコイズの湖が広がっていた。リディアスは痛む肩を抑えながらゆっくりと馬から降り、その美しい湖に近づいた。この国に来てから何度か湖を目にしたが、そのすべてが固く凍っていたし、ここまで大きなものはなかった。
「この寒さでも凍りついていないのか……奇妙だな」
試しに指先を青い水に浸してみたが、凍てつく外気とは不釣り合いな程に暖かな水だった。この湖を越えなければ森を抜けることはできそうもない。しかし、湖上には視界を覆ってしまう程の霧が出ていて、この湖がどこまで続いているのか、どれ程の深さなのか検討もつけられなかった。
「仕方がない、来た道を一度戻ろう。どこかに迂回路があるはずだ……お前には面倒をかける」
リディアスは擦り寄って来た馬の頭を優しくなで、湖の澄んだ水で乾燥して血の味がする喉を少しだけ潤した。
「うっ、くぅぅ……」
水を飲んだ瞬間に、リディアスの視界はぐにゃりと歪んだ。肩の痛みとは別のもの、身体の内側を何かに引っ掻き回されているような強烈な不快感に、彼はおもわず立っていられなくなった。雨に濡れた皮膚は凍ったように冷たいのに、全ての臓器が燃えるように熱かった。
「はっ…はぁっ、なんだ、いったい」
あんな少量を飲んだだけで……よほど毒性の強い水だったのだろうか…いや、匂いや味におかしなところはなかった。それに自分には毒の耐性が常人より遥かにあるはずだ。こんなに早く症状が出るものだろうか……それとも銃弾に遅効性の毒物が……。リディアスは朦朧とし始めた意識を必死に保とうと無理矢理に頭を働かせようとしたが、身体は言うことを聞かなかった。天地が逆転し、自分が湖の畔に倒れていることに気が付いた。意識を手放してしまいたかった。けれど、今まぶたを閉じれば二度と開くことができないことを、彼は直感的に理解していた。馬はリディアスに寄り添い、心配そうな顔を向けた。
「……大丈夫だ。長旅で少し疲れただけだ……先に行っていてくれ」
リディアスは力を振り絞って、強く握り締めていた手綱を離した。ぼやけた視界の隅で、馬がゆっくりと自分から離れていくのを捉えた。リディアスはひとまず安心し、せめて目立たない場所に身体を隠そうと、起き上がるために手足へ力を込めた。けれども込めた力は身体からすり抜けていくようで、少しも動かすことが出来なかった。湖から吹いてくる暖かい風だけが彼の柔らかい前髪を優しく揺らした。先ほどまでリディアスを酷く苦しめていた痛みや不快感は不思議と彼の中から消えていた。むしろ子どもの頃のような、完全に満たされた気分だった。
「眠ってはいけない」と、頭の中で自分の声が反芻していたが、何かに導かれるように、リディアスは穏やかな眠りの中に入っていった。
何か、柔らかなものが頬に触れる感触がしてリディアスは目を開いた。感覚が徐々にはっきりと鮮明になっていき、自分に触れているものが誰かの手であることに気が付いた。
「だれだ……」
視界は相変わらずぼやけていたが、その姿はしっかりと捉えることができた。湖のターコイズより、澄んだ青色の瞳を持った少女だった。月の光に照らされたその肌は、湖の青を反射するほどに、透けるように白かった。長い黒髪が風に揺らされてなびいていた。彼女の持つ雰囲気はこの世のものとは思えぬほど、危うくて美しかった。
「……気が付きましたか?でも、もう少し眠っていたほうが良いですよ……湖の水を飲んだようですから……」
彼女はそう言ってリディアスの頬にもう一度手を添え、彼の顔の切り傷を優しくなでた。
リディアスは一瞬、自分はもう死んでいて、すでに天界にいるような感覚に陥ったが、彼女のひんやりとした手のひらの感覚が、ここが確かに現実であると教えてくれた。頬は酷い凍傷になっていたはずなのに、彼女に触れられても全く痛みを感じなかった。
「君は……」
リディアスは彼女のことを尋ねたかったが、頬に触れる彼女の手の感触が心地よく、いつの間にか緊張が解け、目を開けていられない程の疲労感と眠気を感じた。
「少し……眠ってもかまわないだろうか…?」
「もちろん。目が覚めるまで、側にいますから」
彼女はそう言って微笑み、膝に置いていた片方の手をリディアスの瞼に優しく当てた。リディアスは彼女の言葉に安心し、彼女の指先に従うようにゆっくりと瞼を閉じて、深い深い眠りの中に入っていった。
(続く?)