前
昼時の社員食堂の喧騒は虫の羽音のようだ。だから大抵他人がどんな話をしているかなんて分からない。
しかし今日に限って聞こえてくるのは何の因果か。
―ねえ、あれ、ほんと?松川さん結婚って。
―初田ちゃん、ラスベガスのこと聞かれたんだよね?結構具体的に。ね?
―そ。あれは絶対ベガスで挙式したいんだと思うわ。突っ込んだら嬉しそうに照れてたし。あんなモテるのに結構かわいいとこあるよね。
―え〜ショック。本気で狙ってたのに。
後ろの席から聞くともなしに聞こえてきた話題に、月見うどんの汁が変なところに入ってゴホゴホとむせてしまった。
―海外挙式とはなるほど上手いこと考えたもんだ
トントンと胸を叩きながら水を飲み、まず頭に浮かんだのはそんな感想だった。
彼が結婚するとして、国内で式を挙げるとなると同じ課で仲良し同期枠の私は呼ばざるを得ない。それは彼にとって避けたい筈だ。ただの仲良しでは無いのだから。
ラスベガスでの挙式に彼の思い入れがあるとは思えないから、必要に駆られて聞いたのだろう。例えば相手の希望とか。会社の人に思わず聞いてしまうほど浮かれているとはよっぽど相手が好きなんだろう。なんだか私の好きなドラマが汚されたような気がする。
後ろの席の話題は既にこの時期限定の化粧品の話になっているし、目の前の同期海ちゃんは日替わりの唐揚げ定食を食べながら今日の飲み会がどうのと言っている。
何も頭に入って来ない。周囲から取り残された気分だ。
「―り、実里、ちょっと聞いてる?」
「…ごめん、聞いてなかった。なんて?」
情け無いことに声が震えてしまった。思ったよりショックだったようだ。
「なに、どうしたの?」
「松川君、結婚するらしい。海外挙式だって」
「は?え?そうなの?」
「…て、さっき後ろから聞こえた」
「…実里とでしょ?」
声を落とした海ちゃんの言葉に詰まった。
だって、そもそも付き合っていない。
要するに身体だけの関係だ。
「ちょっと、大丈夫?」
海ちゃんは唐揚げを齧るのを止め、気遣うような声音でそう言った。
大丈夫とは言い難い。
私は営業なせいか、人付き合いが上手いとか打たれ強いとか経験豊富そうとか思われがちだが、仕事外では人見知りだし打たれ弱いし恋愛経験はあまり無い。
それなのにずっと好ましく思っていた同期の松川秋とそんな関係になってしまい多少浮かれはしたものの、好かれていると自惚れられるほど舞い上がっていたわけではない。だって彼はびっくりするくらいモテるから。
塩味の整った顔立ちに長身というモデルのような容姿で何かにつけ女性に囲まれている。人気者特有の人懐っこさとそれに胡座をかかない誠実な仕事ぶりで顧客からも上からも可愛がられている。つまり全方位的にモテる。
知っているだけでも歴代の彼女達は皆、毛先から指先まで行き届いた、キラキラフワフワツヤツヤの可愛い女の子ばかりだ。
対して私は真面目が取り柄の普通の地味な女だ。その見た目と同じく仕事振りも地味だ。女にしては背は高いし、声も低い。自分で言うのも何だが全くキラキラしていない。強いて良いところを挙げれば色の白さくらいか。おじさん受けは良いが同世代にはモテたことがない。大学生の時に一瞬同級生と付き合ったこともあったがキス止まりで、致す事なくこの歳になってしまっていた。つまり彼が初めての男だ。
だから勿論ずっと続くとは思っていなかった。
もうちょっとこのまま、と願っていただけ。
でも、もう終わり。
他から聞くのは思ったよりダメージが大きかった。
「…潮時なんだろうねえ…」
「や、え〜…?違うんじゃない?ちゃんと話したら?」
「う〜今はムリぃ…」
「…とりあえず今日の飲み会来なさい、ね?」
今日海ちゃんは彼氏達と飲み会だ。海ちゃんの彼氏は社内のシステム課の人で、殆ど女性社員がいないからか飲み会がある度に私も誘われていた。ずっと断ってきたが、今日は金曜日だしこのまま家に帰り1人でうだうだ考えたら日曜には地の底まで沈んで行ける自信がある。
「…飲んでぱあっとしようかな」
「そうだよ。男前も来るよ?話を聞いて欲しいなら野郎どもは追い出すし、さ」
「…そんな気にはならないし、テンション上がらないけどいいのかなぁ」
「いつも低いし誰も気にしないわ」
「ひどい」
正直な海ちゃんに思わずちょっと笑った。少し笑えたことに安心する。
「今日何があるの、井上さん」
そう言って、にこやかに私を覗き込みながら右隣に件の男が座った。
あなたが結婚するから男性を紹介してもらおうかと思ってとは言えなかった。私が答えられないのを見て海ちゃんがつんけん答えた。
「こっちの話」
「…ふーん」
結婚する幸せ絶頂な男にしてはあまり機嫌がよろしく無いようだった。不機嫌そうに眉間に皺を寄せた顔も麗しいと思うし、触れたり触れなかったりする右肘もドキドキする。自分でもバカだと思うがすぐには割り切れるものではない。
この人誰かと結婚するんだからと自分に言い聞かすと悲しい気持ちがシミみたいにじんわり心に広がった。
「私、昼から外に出るから行くわ」
流石に会社で本当に泣きはしないけど平気な顔して会話するのはしんどかった。こういう時は営業で良かったと思う。どっかでちょっとサボって泣こう。
「あ、実里、あとで連絡する」
「うん」
彼に結婚を考えるような彼女がいるなんて全く気付かなかったなあ。
背中を降りていくその優しい撫で方だとか油断すると体中に唇を添わせ跡をつけたがることだとか、抱き合わなければ知らなかった秋のディテールが次々と頭に浮かび、だけど私だけでは無かったんだと思うと容赦なく胸を抉った。
二人で飲みに行ってもそんな空気が全く無かった私達がこういう関係になったのは、今年の新入社員歓迎会がキッカケだった。
幹事として会計し領収書を書いてもらうのに手間取り店の外に出た時には、すでに秋しか居なかった。
「あれ?もう皆いないんだ」
「若いのはカラオケで二次会だってさ。どうする?二次会」
お酒は弱くはないが結構酔っていた。宴会好きな上司の相手を新入社員にさせるのもなあと付き合って飲んでいるうち、結構飲んでしまっていたようだ。
「行かない。結構酔ってるしもう帰るわ」
「じゃあ俺も帰る。って、駅こっちだろ」
「ん〜歩いて帰ろうと思って」
「は、ダメだよ。危ねぇ」
「ん〜でも酔い覚ましに歩きたい」
松川君はハァとため息をついて、ガシガシと頭をかいた。
「自覚足りねえ…送る」
「いいよ、ここからだと40分くらいかかるし」
「…ばか、いいよ、そんなの」
いくぞ、と先に歩きだした彼の背中が少し照れたように丸まっている。惚れてまうやろと芸人みたいなことを思いながら小走りに追いかける。横に並んで横目で見上げた横顔は何となく怒っているようだった。
入社した頃、人当たりは良いのに人と一線を引いた感じがする彼が少し苦手だった。同期として共に過ごす時間が徐々に増え、彼は私に対してすっかりぶっきらぼうになった。私も肩の力を抜けたのか三年も経つ頃には互いに1番仲のいい友人と言えるようになっていた。
別に優しい言葉をくれる訳じゃない。でも落ち込んでいる時に限って何くれと無く誘ってくれることに気付いた時、好きにならずにいる事は難しかった。友人にすらこんな優しいんだから彼女にはどんなに優しいんだろう、と思う度に胸のどこかがチリチリするようになったのは、いつからだろうか。
夜風が火照った頬を撫でた。
日中は汗ばむ陽気でも流石に夜は少し肌寒い。
思わずぶるりと震えると、さりげなく右手を取られた。温かい大きな手は少しカサついていた。
え
ビックリして立ち止まり彼を見上げれば、ゆっくりと目の前に綺麗な顔が降りてきて触れるだけのキスをされた。自分の顔が真っ赤になったのが分かった。
「ま、まつか―」
「秋」
「え?」
「あき」
「あ、秋?」
「ん」
満足そうに微かに口の端を上げたかと思うとボソっと呟いた。
「実里、って呼ぶ」
「え?」
「…呼ぶから」
タクシーの中、手を握られたままぼんやり夜の街を見ていた。秋の親指は私の手の甲をずっと撫でている。
フワフワしているのは、お酒によるものなのか慣れない状況によるものなのか判別がつかなかった。
どうして手を握ってる?
どうして名前を呼ばせた?
どうしてキスした?
喉元まで出掛かった言葉は一つも出せなかった。
握られた手は部屋に着く頃にはいつの間にか恋人繋ぎのそれになっていて、テンパって鍵が鍵穴に入らなかった。ふ、と笑い声が降ってきて優しく鍵は取り上げられドアを開けてくれた。
秋は私の片手を掴んだまま玄関のドアを後ろ手に閉めた。部屋に上がる素ぶりがなくて戸惑った。
「あ、あの、まつか―」
「秋だろ」
「あ、秋。なんで」
「ん…なんでって、」
手を引かれ秋の腕の中に捕らわれた。首元に当てられた口からくぐもった声が聞こえる。
「…分からないか?」
そう言って顔を上げた秋に、またそっと口づけされる。拙いなりに応えると段々と貪るように深くなった。勘違いしてしまいそうな熱量の口付けに息も絶え絶えの私をさらに強く抱きしめて秋は耳元で囁いた。
「…な。だから危ないって言ったろ」
そうして、その日私達は抱き合った。
ただ触れ合う肌はいつの間にか同じ体温で溶け、低く掠れ吐息交じりに呼ばれる名に 確かに愛されているような気がした。大切にしてもらえているような気がした。
好きとも付き合おうとも言われなかった。
それから半年。お互い激務と言われる営業一課の割に少なくとも2週間に一度は会っていただろうか。不毛な関係だとしても私にしてみれば好きな人との幸せな時間だった。
でも。
ここひと月は避けられているかもと感じていた。会社で話はするしスマホの何気ないやり取りもある。二人で飲みに行くこともある。
でも家には泊まりに来ないし、そういうこともやらなくなった。ただ忙しいだけだと思う時もあれば、飽きられたんだろうと思う時もある。
いい歳して経験が浅く喜ばせるような手練もない私ではしょうがない。薄々そう思って折り合いを着けようとしていたところへ今日の話だ。
悲しさとやっぱりという気持ちとで頭の中はぐちゃぐちゃになりながら営業鞄に打合せの資料を詰めていると海ちゃんから今晩の飲み会についてLINEが来た。暗い気持ちで早いなあと思いながらビルを出たところで秋に声をかけられた。
「実里」
今だけは会いたくなかった。
二人の時だけ律儀に名前呼びしてくれるのは秋なりの礼儀なのだろうか。そういう中途半端な優しさは優しさじゃないと思うのだが。
「なあ、何が潮時なんだよ」
並んで駅に向かいながらぼそっと言う秋に流石に少し腹が立った。むしろ物分りが良いと褒められてもいいくらいなのでは?
「別に何でもないよ」
「…ふうん。…なあ、話あるんだけど。今日か明日か家行ってもい?」
いっそ黙って結婚すれば良いのに。
そう思うとどうにも尖った声が出た。
「ダメ」
「…海野さんと飲みに行くんだろ?俺は遅くてもいいし」
先約が無ければ、この甘さを含んだ声を前に断る自信はなかった。かと言って直接聞いて冷静でいる自信も今はない。
「今日がしんどいなら明日の夜飯行くのは?」
なおも言い募り覗き込んできた秋の瞳が揺れて見える。懇願するような声に迂闊にも勘違いしてしまいそうになる。
でも
この男は誰かと結婚するのだ。
私は長い時間を掛けなければ忘れられない。目を閉じて息を吐いた。声が震えなかった自分を褒めてやりたい。
「……今日とかいう事じゃなくてさ」
「ん?」
「もう、会社以外であうのやめよ」
「………は?」
それだけ言い捨てると、返事を聞くのが怖くて私は秋を置き去りに走って改札口へ向かった。