実行犯
――東京駅、午前十時、依然変化なし。
あのネタなのかネタじゃないのかよく分からない掲示板の書き込みで運試しをするべく、俺は実に一年ぶりに家の敷地から足を踏み出し東京駅に来ていた。東京の駅など五万とあるが、東京駅を選んだのは単に自宅から一番近いからだった。高々今日という日の運試しのために、わざわざ遠くの駅にまで足を運ぶのは面倒だった。
駅には一時間くらい前に到着した。思ったとおりバレンタインデーに目のくらんだ連中がそこら中に散らばっていた。よくもまあ、毎度毎度こんなところまでチョコレートのためだけにやってくるものだ。暇にも程がある。せっかくの時間なのだからもっと有効に使えばいい――と、一年近くニートをしていた俺がいっても全く説得力がないので止めておこう。とにかく今は、例の書き込みをした自称学生らしき人物を探し出すことが第一だ。
俺は乗りもしないのに一番安い在来線の切符を券売機で買って駅の改札内に入った。そのあと何度も駅構内を行ったり来たりしてみたが、学生らしき人影はあれどそのなかにテロを起こしそうな陰を持った人物はない。皆平和そうにチョコレートを買いあさるばかりだった。掲示板の書き込みにはテロに関しての詳細な情報は、東京の駅、ということ以外に何もない。考えてみればこうして探し回っていても、掲示板に書き込みをしたであろう学生がいつテロを起こすのかも、俺は知らない。見つけ出にはそれ相応の情報が必要だというのに。
今更ながらに俺は自分の認識の甘さを実感させられるに至った。同時に今日ここに来るまでのモチベーションであった好奇心の芽がゆるゆると萎えていくのを感じていた。つまらない、とそう思った。確かにテロが起きないというのであればそれに越したことはないだろう。そこは安堵し、よかったと受け入れるべき事実である。だが同時にそれは実につまらない。俺はこの二月十四日に毎年災難を受けてきて、この日を忌み嫌っている。そしてこの二月十四日が俺だけでなく他人にも忌むべきものとして植え付けられることを、あの書き込みを見た時に実はうっすら期待していたのだ。最初は運だめしとだけ思っていたが、何だかんだここに来てみたら何も起こらないことより何か起こることを期待していた。それが今、このとき、何も起こらないことを、つまらない、と思ってしまった理由だった。
一時間東京駅を彷徨ってみたが特に何の発見も得られなかった俺はあと一周だけしたら諦めて素直に家に帰ろうと思った。あまりにも確率が低すぎた。ただ一つ、東京の駅で学生がこの日にテロを起こす、という情報だけを頼りに、何を浮かれていたのだろう、と目が覚めたのだった。八重洲口の方から新幹線フォームの近くを巡り、近くの菓子屋を見る。学生らしき人影と言えば、そこでバスケット片手にOLにチョコレートを勧めているパティシエ姿のバイトと、その周辺にたむろする客くらいだ。平和な光景。テロらしき影はどこにもない。
と、その時、足元で小さい包みのようなものが動くのが見えた。
「……と?」
何事かと思い靴の先端を見る。よくコンビニなどで売っている一粒十円のチョコレートが転がっていた。味は、ミルクキャラメル。どこかの誰かが、うっかり買い物袋から落としたのだろうか。
俺は一瞬まじまじとそれを見て何となく拾わなくてはいけない気になってしまい、駅の通路の真ん中でしゃがみこんだ。親指と人差し指で茶色い包みを摘みあげると、まだ落としてから間もないのか、きれいな直方体形を変形させることもなく手に収まった。
俺は周りを見た。煌びやかな装飾に包まれた駅構内はバレンタインムード一色である。落とされた十円チョコ。これも一応、チョコレートの一種だよな、と思って俺はなぜかそこでチョコの包み紙を開け、口の中にそれを放り込んだ。
道端に落ちているものを拾って食べてはいけません、というのは親が幼稚園生にきつく言って聞かせる言葉の一つではあるが、俺は大学を卒業した今になって初めて、それを破った。チョコレートの形の良い直方体を左の奥歯でかみ砕き、にちゃにちゃと咀嚼する。ミルクとキャラメルの絶妙なコンビネーション。甘さを絡めあう二つの菓子。何度噛みしめても分離することはない。キャラメルがチョコレートにまとわりつきチョコレートがキャラメルを溶かす。滑らかなキャラメルは味覚を刺激しさらなる甘美へと蠱惑する。舌先から感ずるは人肌のごとき柔らかさ。それがより脳に与える糖質を、もっと、と求めさせる。麻薬的な陶酔。思わず我を忘れそうになる――と思った次の瞬間、不意に、電流が走るような痺れに舌が震えた。
「ん、うっ……!」
思わず吐き出してしまいそうになるがそれをぐっとこらえる。何だ、これは。ただのチョコレートじゃない。醤油と砂糖と、トウガラシと、その他さまざまなものが混ざっていそうな不釣り合いな味覚の主張。先ほどまでの甘い思い出は消え失せ、ひたすらに甘味、酸味、苦味が交互に押し寄せる。まるでチョコレートの皮を被った、薬品。そんな想像が頭を過ぎる。破壊し尽くされる味蕾に身悶えながらも、俺はそのチョコレートを何とか無理やり、咽喉の奥に押し込んだ。
「くあ……はあ」
いや、寧ろ飲んでしまった。なぜか飲みこんでしまった。チェックの厳しい日本の生産ラインでは、何を作るにせよほとんど欠陥品は出ないと聞く。ではあれは何だ。先ほどのチョコレートは一体何が入っていた? それも分からずになぜ飲み込んだ? 飲み込んでしまった? もし本当に変な薬品がチョコレートの皮を被っていただけだったらどうする。そう思うと唐突に恐怖が込み上げてきた。いちいち忙しい自分の感情の変動に目眩がする。ぐらり、と揺らぐ意思と理性。これは罰か。ああそうだ。道端にあるものを勝手に拾って食べた罰か。そうか罰か、今までの罰か。一年間耐えてきたのに家から出てしまった、妙な好奇心への罰だ、そうに決まっている。罰だ。
頭に去来するは今日の日付。周囲の騒音。手に持ったチョコレートの包み紙の感覚。今日は何の日か。問われるまでもない。そうだ、今日は二月十四日。年に一度の厄日。これだから。
「これだからバレンタインは嫌いなんだよ!」
あらん限りの声を尽くして叫んでやった。周りの人々が何事かと視線を向ける。チョコの販売に興じていた婦人、携帯電話片手に走り去ろうとしていたビジネスマン。それらの発する雑音という雑音が、皆俺の発した声に反応して一瞬、水の中に沈んだかのような沈黙のうちに閉ざされた。わずかばかり時が止まった。だが一秒後にはまた、駅構内は喧騒を取り戻した。
俺はそのあとただ、流されるままに歩いた。ただぼんやりと歩いた。どこの店とも分からない菓子屋の列に紛れてただ時間を潰した。思わず出てしまった先ほどの叫びを、何とかして忘れたかったのもあるが、それ以上に今は何もかもどうでもよくなってしまってただ漫然と、気の赴くままに歩みを進めるばかりだった。家に帰ることも考えたが今更帰ったところで何もすることがない。また一年間パソコンの前で引きこもりの生活を続けるだけだ。なにせ今日、道に落ちていたチョコレートを食べたことで、二月十四日が確実に俺にとっての厄日であることが分かったのだから。
流れ流され続けて俺はいつの間にか三件目の菓子屋の列に並んでいた。目の前には買えもしない高級チョコレートが色とりどりの包み紙を晒しながら人々の好奇の視線に当てられている。呆然とそれを眺める。同時に体が、並んでいる列の人々によって動かされる。前方にいた女性とぶつかる。「すみません」と謝られたので「あ、いえ」とだけ返す。痛みはない。声もそれ以上は出ない。なぜ俺はこんなところで油を売っているのだろう。さっさと帰ればいいものを。
「待って」
どこからか飛び込んできた女性の声に、俺は何となくそちらを向いた。ぼんやりしていた矢先の出来事だったので、少し反応が遅れた。そもそも、最初は俺のことを呼んでいるのだと気付かなかった。だが見ると、先ほどの女性が明らかにこちらを見て、俺を呼ぼうとしていた。俺は気後れした。見たところ、年上か同年代のOLといったところだ。顔は知らない。ぶつかっただけで呼び止められるなど、初めてだ。
俺は何とか流され続けた列を脱して女性の方へと歩いた。女性もヒールの高い靴を鳴らしながら、こちらへ近づいてきた。
「え、っと……」
近寄って見ると思ったより身長が高かった。高圧的な視線に当てられて内心びくびくする。最悪だ。きっとぶつかったことを罵られるに違いない。こういう女性は、文句をつけるのだけは得意なのだろう。ちょっとぶつかった程度で文句を言う。怖い。
「あの」
「急に呼び止めてしまって失礼しました。いえ、あの……さっき駅で叫んでいた方、ですよね」
そういわれて弾けるように背筋に戦慄が走る。もしや呼び止めたのは、ぶつかったことではなく駅で叫んでいたことを叱るためか。だとしたらそれはそれで納得だ。あんなことをすれば普通は無視するか、煙たがるかのいずれか。この人のように注意する人はなかなかいない。ここは先手を打って謝っておくべきだ。
「ああ、すみません……周りの方にも大変ご迷惑をかけてしまい……」
反省している態度を見せれば少しは相手の怒りも収まる、はず。俺は腰をきっちり曲げて本当に申し訳なさそうに詫びの言葉を吐く。本当のことを言えばこれさえもバレンタインデーたる二月十四日のせいなのだが、今はそんなことは関係ない。
「あ、いえ。そうではなくて……」
だが女性は何やら言い淀んで俺に頭をあげるように言った。まるで俺が謝ることなど想定していなかった、というような狼狽の仕方で、手を胸の前に広げている。何だというのだろうか。
「先ほど、あなたがバレンタインデーが嫌いだ、と仰っていたので、どういうことなのかと少し気になって、話を聞いてみたくて」
「は、あ……?」
「あ、私も嫌いなんですよ、バレンタインデー」
女性は目に光を宿して開いていた手で拳を作った。
「こんなくだらない行事に精をあげているのが信じられないです。労力も大きいですし、何より社員から『君は今年誰にあげるの』なんて訊かれるのがたまったもんじゃない。毎年毎年迷惑してるんですよ。あなたの叫びを聞いて、私も嫌いなんです、って言いたかったんです」
「……なるほど」
世の中でバレンタインデーが嫌いなのは心が寂しい毒男だけだと思っていたが、女性にもこういう人がいるのか。確かに、好きでも何でもない異性にわざわざ大枚はたいてチョコレートを渡さなくてはならないというのは、女性の側からすれば面倒なこと極まりないかもしれない。毎年毎年、本命は誰なのか、と訊かれるのも、おそらく苦痛となろう。
それにしてもよくそんなことを言うためにわざわざ俺に声をかけて来られたな、と思う。いくら同じ感覚を持っているからと言って、あれだけ盛大に騒ぎ立てている者を呼び止めるなど、相当な勇気が必要だったに違いない。女性はまだバレンタインデーについての恨み辛みを切々と語っている。話が途切れることはなさそうだ。
「あ、でもですね」
こちらを向いて、女性は言う。
「さすがに、他の人に迷惑をかけるのは、御法度かなあ、と思うんです。ネットでテロを起こそうなんて考えてた人がいたって、噂を耳にしまして」
核心を突かれた。一瞬冷たい汗が背筋に流れる。
「もしかしたら、この近くにいるのかなあ、なんて思ったりして……あなた、ではないですよね……?」
言葉を突き付けられて焦ったが、そうだ、考えてみれば首謀者は、俺ではない。俺はあくまで首謀者のやることで運だめしをしようとしていたにすぎず、言うなれば傍観者に過ぎない。実際俺はどちらかというと、二月十四日に悩まされてきただけの、ただの被害者だ。この日に加害者になるなど、俺の中では最初からあり得ない。
「ええ、違います」
やっとまともな返答が出来た。女性の顔から、やや不安の色が消えた。もしかしたら、あまりに人相悪いから疑われていたのかもしれない。俺は付け加えた。
「……首謀者は学生ですよ。直接書き込みを見たので、知ってます。俺はもう卒業して数年経ってるので」
学生ではないですね、と言って苦笑すると、学生、と女性は別のところに反応した。差し詰め、テロの話は噂で聞いただけだから、学生が首謀者だとは知らなかったのだろう。「東京の駅で」ということも、東京駅とは限らないことを知らないかもしれない。
これは、いろいろと話をしてみたい。バレンタインデーが嫌いだという点も含めて。
「あの、よければ場所を変えて、もう少し時間を取ってお話しませんか。ここでは人が多くて話すのも大変ですので……」
俺から切り出してみる。女性は、そうですね、この後仕事ですので、それに支障が出ない限りなら、と言ってくれた。俺たちは人ごみのなさそうなところに退避すべく、菓子屋を後にする。
その後、女性との会話は主にバレンタインデーのことについてだけだった。ひたすら二人でバレンタインデーについての文句を言いあい、不平不満と愚痴で盛り上がって、昼くらいに解散した。
その帰り際、この一年、ほとんど人と話さずに暮らして来て、二月十四日に決まって悪いことが起きると思い込んでいた俺は、ふと、今日という日がそれほど悪い日ではなかったように思えていた。確かに駅で拾ったチョコレートを口に含み飲みこんでしまったという事態に見舞われそれこそ、今年も例年と似たような二月十四日を過ごすのかと思っていたが、その不満を女性に話したからだろうか、少し気分が楽になっているのに気がついたのだった。俺は単に、二月十四日に毎年悪事に見舞われることを誰かに話したかったのかもしれない。
願わくば、来年の二月十四日こそは、何一つ悪いことが起きないといいな、と思う。そうしたら、あの忌々しいとしか思わなかったバレンタインデーの空気も、少しは明るく賑やかで楽しいものだと思えるようになるかもしれない。チョコレートは相変わらず買う気になれないだろうが、この日さえどうにかなればいいわけだから、この日のために一年間引きこもるなんて変な真似をしなくても、もういい。来年は、普通に二月十四日を過ごす。そのために今年一年また頑張る。今日やっと、そういう気力が沸いてきたような気がした。