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被害者

東京駅に着いたのは午前十時頃だった。名古屋から新幹線のぞみに乗って約二時間。東海道新幹線の改札を出て駅構内を見渡すと、さすが関東一の大都会東京といったところだろうか、そこら中に人がごった返していた。少しでも気を抜くと道行く人々と肩をぶつけあってしまいそうだ。

「それにしても……」

 と私は一人呟く。胸元から携帯電話を取り出して、来る時に確認してきたメールボックスを、もう一度開く。先頭にあるのは今日行く予定だった得意先からの連絡。その内容は、予定していた会議の時間が二時間ほど遅れる、申し訳ない、というもの。

 はあ、と思いがけずため息が出る。まさか普段時間にうるさい取引相手がこの日に限って二時間も時間をずらしてくるなんて、思ってもみなかった。気分が悪い理由はそれだけにとどまらない。駅内は見れば見るほどバレンタイン一色。日ごろからお菓子を売っている店にはもちろん、通路にすらその買い物客と思しき人々がずらりと列を作っている。せっかくこの日を仕事で忘れようとしていたにもかかわらず、運悪く時間がずれてしまったために、この浮かれ気分の駅構内で時間を潰さなくてはならなくなった。

 はあ、ともう一度ため息をつく。見れば見るほど嫌気がさしてくる構内のせいで仕事に向けて高まっていた志気が一気に冷めていくのが分かった。嫌ならコンコースから逃れて改札付近でおしゃれな料理屋にでも入り、少し高めのランチでも頼んでゆっくりすればいいのだろうかとも考えたが、朝食にしても昼食にしても時間としては中途半端だし、バレンタインデー特別メニューなどを拵えている場所にうっかり入ってまた不快な気分にさせられるのも癪だ。加えてこの辺りではカップルも多そうで、一人者がゆっくり出来そうな場所というのを探すのさえ面倒に思われた。

 仕方がないのでせめてこの空気からは逃れよう、と思い、私は足を進めることにした。道行く人々は皆チョコレートの看板に目を奪われている。親子連れ、女子高生、カップル、仲のよさそうな老夫婦と言った人々が、長い列を作ってチョコレートを買うためにいそいそ肩を寄せ合っている。実に不愉快極まりない。

そういえば、とそれを見ていて思い出した。考えてみれば母から東京のバレンタインチョコを買って来てくれないか、と頼まれていたのだ。あのときはバレンタインデーに託けてお前もそろそろ婿を貰ったらどうだと勧められていたせいでいらいらしていたが、母も母で私に会えない事が寂しいのかもしれない。時間もあることだし、どうせならその土産を選ぶのに苦心すべきか。行く場所もないのだから丁度いい、さっさと買い物を済ませてしまおう。

私はいくつもある長い列の最後尾に向けて歩き出そうとした。が、その直後、背後から肩を叩かれるのに気付いた。決心を付けた後の不意打ちに、思わず身体を固くする。一瞬振り返るのが遅れた。

「お姉さん、お姉さん、これ、どうぞ」

 振り返るよりも先にそんな声がしたと思うと、背後に全く知らない青年がいた。バレンタインデーのこの人だかりに対応して店側が雇った学生のアルバイトだろうか、白いエプロンを身にまといパティシエを模した帽子を被って、手にはチョコレートのたくさん入ったバスケットを持っている。そのうちの一つを手に取り、さあさあ、という具合に私に向かって突き出している。コンビニなどでよく売っている小さいチョコレート。これといって市販のものと変わったところはなさそうだ。行列を詫びてのサービスか何かだろうか。

「これ」

 が、唐突に差し出されたものだから貰っていいのかどうか、少し躊躇われる。そうこうしているとそのアルバイトらしき人物は、サービスですから、と言ってチョコを無理に渡そうと手を広げる。

「あいや、でも私」

「さあさあさあ」

 制止も聞かずに詰め寄られ、やや息が詰まった。サービスとは言っているがこれではほとんど押しつけではないか。私はまたいつもの思考に陥った。ああもう、本当に。

「これだからバレンタインは嫌いなんだよ!」

 私が心の中で叫ぶのを代弁するかのような声が背後から突風のように飛びこんでくる。何事か、と思い、声のした方を振り向く。そこには細身で不健康そうな男がいた。年頃は大学生かその少し上、二十代前半というところだろうか。緑のコートに身を包み、黒いバッグを背負って猫背にとぼとぼ歩く。彼は公の場で思わず大声を出してしまったことを恥じることなく、何やらいきり立った様子で歯を食いしばっている。一体何があったというのか。

 隣で私にチョコレートを勧めていたパティシエ風のアルバイトも唖然とした様子で彼をぼんやりと眺めていた。バスケットのチョコレートはまだ大量にある。その中に、渡そうとしていたチョコレートが音もなく落ちて行った。東京の人は少しぐらい人が叫んでいても完全に無視して気後れしないと聞いていたが、このアルバイトはどうやらそのような人々とは違うようだ。もしかしたら田舎の出身なのかもしれない。

「あ、すみません、お姉さん」

 が、そう思ったのもつかの間だった。アルバイトは一瞬のうちにもとの笑顔に戻ると、もう一度チョコレートを掴んだ。

「いやはや、私としたことが。バレンタインデーが嫌い、なんて言葉に思わず手を止めてしまいました。申し訳ないです」

 バイトはちょっと首を下げると恭しく手を差し出し、再度その上に乗っている小さな一粒を勧めてきた。

「あ」

 一瞬遅れて、その手を見た。一粒のチョコレートがこちらを見返している。先ほどの悲鳴がなぜか耳にまた木霊する。「バレンタインデーなんか嫌いだ」そうだ、いつもの私ならば、いつもの仕事ばかりしている私ならば、きっともっとはっきり、他人に引かれてしまうの承知で余裕の構えを見せつけるはずではないか。それこそ先ほど構内で叫んでいた男のように、人目もはばからず叫べるほどに。勢いに流されるなんてもっての外だ。なぜそんな簡単なことをためらう必要があったのだろうか。

「あ、いえ」

たじろいでバイトの差し出すチョコレートを手で遮った。これが意思表示、とでも言わんばかりに。

「私も、バレンタイン嫌いなので。チョコレートは、お土産のためにしか買いません」

 背筋を伸ばして、バイトにチョコレートを突き返す。唖然としているパティシエ姿のバイトは少し固まっていたが、「はあ、そうですか」と言って私の前を離れ、どこかへとぼとぼ歩きだした。諦めた、のだろうか。あれだけたくさんあったバスケットのチョコレート、これからどうするのだろう。そんなことを考えつつも、バイトからチョコレートを貰ってやろうなどという気は、とても起きなかった。これから私は、母の買い物のためにやや高級そうなチョコレートを見繕いに店を数件回らなくてはならない。甘ったるいチョコレートの試食コーナーをいくつも巡るのだ。

 チョコレート専門店は東京駅の周辺にいくつもある。また関東一の大都市の中心、東京駅の内部にも地下と地上、それぞれのフロアにお土産売り場や食事処が軒を連ね、とにかく食べる分、買う分には全く不自由がない。私はそのうち在来線の改札から出ない範囲で土産のチョコレートが買えそうな良い店がないかを探した。バレンタインデーのせいもあり、どの店もショーケースの中では鮮やかなセロファンが眩しい。曲がり角では菓子屋からの差し金だろう、出店のお姉さんが道行く人々にかわいらしい笑顔を振りまいている。並ぶチョコレートは、どの店でも高級で目新しいものばかりだ。さすがは首都東京、といったところだろうか。

 三件目の店を巡り、多種多様なチョコレートの中から母が好みそうなものを品定めし、四件目の店に移ろうとした時だった。

「あ」

「……っと」

 不注意で後ろにいた人とぶつかりそうになってしまった。ただでさえ歩きにくい駅構内にバレンタインデーとあって、人がごった返しているのだから無理もない。人口密度の多い場所はこれだから移動しにくい。混雑した菓子屋では一歩進むごとに人にぶつかる。

「あ、すみませ……」

 私は咄嗟に後ろにいた人に会釈しながら謝った。その人影にどうにも決まり悪そうに俯いて「あ、いえ」と返す。だがそこで私ははた、と、その人物に既視感を抱いた。前かがみに顔を突き出しチョコレートを覗く姿は、不健康そうな猫背。黒のバッグを背負い緑色のコートを羽織った出で立ちはまさしく先ほど大声で「バレンタインなんて嫌いだ」と叫んでいた青年その人だ。青年は買い物客に押し流されて、私とは逆の方へと進んでいく。抗う気力も体力もないようだ。なぜあんなことをしておいて、こんな場所にいるのか。一体どういうつもりなのだろう。

私はチョコレートを買う客の列を抜け出して、彼の動向を目で追った。流されるままに流され続ける男はただただ暗い目をしていた。まるで自暴自棄にでもなったかのように体から気力という気力を垂れ流し、ひたすら前かがみになったままガラスの中のチョコレートを見ている男。その姿は、まるで生きる気力を失い絶望しきった浮浪者のようにも見えた。そういえば、以前誰かが、今日東京の駅で無差別テロが起こるかもよ、と噂していたのを耳にしたことがあった。何でもバレンタインデーによくない印象を持っている輩が、ネットの掲示板に妙な書きこみをしていたとのことだ。嫌な予感がした。まさかこの男、そのテロの首謀者などではあるまい。

私は気付くと彼に、待って、と声を掛けてしまっていた。今にも死にそうで土気色の顔がくるりとこちらを向き、やせ細って瞼が落ちきった瞳が、私を捉えた。

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