犯行現場
「あ、私、バレンタインデーとか嫌いなんで」
とある二月の昼休み。バレンタインデーの話題に盛り上がる同期の女の子にぴしゃりと放った私の一言が、一緒にお弁当を食べていた彼女たちのそれまでの空気を突然凍りつかせた。社員食堂の空気は相変わらずお昼の緩慢で呑気な気だるさに満ちている。その中で、私たちのグループの座る席だけが一瞬、ほんの一瞬だけ、異質なものへと変化した。
またこの反応か、と思う間もなかった。寧ろまあ当然だろう、くらいにしか思わなかった。差し詰め彼女たちは「何を言ってるんだ、こいつは」とでも思っているのだろう。眉間に浮かぶ露骨な皺がそれを包み隠さず表わしてくれている。私はそれに対して何とも思うことはない。順当に考えるならばまず、会話の空気を壊してしまったことを反省すべきなのだろうが、壊れることを予期していながら発言したのだからそもそも省みられることがない。それが常識的な彼女たちにとっては余計に不自然なのだろう。今度は「何か補足をしてくれないか」とやや焦っている感じに見える。だが私はそういうことを全て分かっていながら、あえて彼女たちを無視し続ける。
この時期になると必ず聞かれる「今年のバレンタインデーは誰にチョコをあげようか」という質問を、私は毎年こう言って掻い潜る。「私、バレンタインデー嫌いなんで。そういう質問されても、興味ないから困るだけなんで」これだけ聞くととても冷たい人間のように思われるかもしれないが、嫌いなものは嫌いなのだから仕方ない。別に社員との関係が悪いわけでも、社内で私が浮いているということもない。だからこれを言ったところで私の社内での地位が変わるようなことはまずないのだが、言われた方があまり気持ち良くないのは容易に想像がつく。言うならば賑やかに談笑していた中で唐突に刃物を突き付けられたようなものだ。しかも、その刃物は切れ味がなかなか鋭い。「止めてよ」や、「どうしてそんなこと言うの」などと言えばバッサリ斬って捨てられそうな殺気さえ感じる。逃れられるものなら逃れたいが、油断をしたり刃向ったりすればさらに斬りこまれるだろうから、迂闊に自ら動くこともできない。相手の出方を伺うしかない。
というわけで、今年のバレンタインデーも彼女たちは例年同様の反応で私の言葉を聞いている。何秒か経つと「ああ……」と唸るような声で戸惑いを露わにして視線を他の女の子たちと交互に合わせる。
「ああ、うん、ああ、そうだったね、うん」
「ごめんごめん、あたしたちちょっと浮かれちゃってさあ、陽子の気持ちも考えず……もう、亜美が今年のチョコは圭吾君が本命! なんていうから」
「え、ちょっと、私のせい?」
亜美が狼狽して二人の間で声を荒げる。二人は亜美を茶化すようにして「もう、ほんと空気読んでよね」などとまるで他人事のような顔をしている。亜美はそれを聞いてやや脹れっ面になり、じゃあもう知りません、とそっぽを向いてしまった。うん、そういう態度はなかなか可愛いと思うよ、それならきっと圭吾君も落ちるんじゃないかな、などと、思ってはいても言ってはやらない。亜美が圭吾君と結ばれようが結ばれまいが、そんなこと私には関係ない。そんなことよりも早くバレンタインデーが何事もなく過ぎ去ってくれることを祈るばかりだ。
私は三人が尚もはしゃぎ続ける傍らで「ごちそうさま」と一人席を立った。食べ終わったキツネうどんのドンブリと箸を綺麗に揃えて、お盆を持ち上げる。三人は会話に夢中でどうやら私に気づいていない様子だ。まあそれならそれでよかろう。さて、この後の予定は何だっただろうか。とりあえず食器を片づけてから、スケジュールを確認してみよう。確か火曜日までに仕上げなければいけない案件が一つと、木曜日までに目を通しておいてくれと言われた書類が二種類あったような気がしたが。次の会議はいつだっただろう。
考えながら食器を片づけて、社員食堂を後にした。上着の内ポケットの中に手を突っ込んで、黒い皮で表面を覆われたスケジュール帳を取り出す。今日は二月の九日、次の会議は明後日、十一日。そして、今週末の十四日が、東京に出張だ。カレンダーの十四日の欄に「東京」と書いてあり、その下の元々書いてあった文字が黒く塗りつぶされている。
ここに何が書いてあったか、など、今更思い出そうとするまでもない。
私にとってバレンタインデーなど、仕事をする上で非常に邪魔なイベントでしかない、ということだ。同僚は皆浮足立ってチョコレートとお菓子の会話しかしないし、「今年は誰にチョコをあげるの」と聞いてくる。いつもは仕事を振りまくってくる部長や課長などの上司も、休憩時間中に女性社員がバレンタインデーの話題で盛り上がっていると「君はどうかね」などとわざとらしく私に話を振ってくる。
馬鹿馬鹿しい。何が悲しくて大の大人が一年に一度、チョコの交換なんかしなくてはいけないのだろう。
そんなことに現をぬかしている暇があったら、さっさと仕事を片付けたいのに、とはよく思う。私には上から振られた仕事が山ほどある。スケジュール帳は、毎日書きこんで行っても全然足りないくらいにスペースが使いこまれているし、出張も他の社員よりも多い気がする。今月のサービス残業は月始まってからまだ二週間も経ってないのに優に五十時間を超え、既に何日か徹夜もした。入社以来睡眠時間も削る怒涛の日々。仕事漬けの生活。しかも、最悪な事にこれだけ仕事をしているのに他の社員と給料はほとんど変わらない。労働のための労働を、ひたすらに繰り返すばかりで、それでも、私は一つ一つ仕事を潰していく以外の生き方を知らない。どんなに辛くても、他のこと――例えば趣味とか――に熱中できるような好奇心を、私は持ち合わせていないのだ。
だから本来であれば、私はバレンタインデーに限らず世の中のイベントを全て無視したいくらいなのである。が、殊バレンタインデーに関しては、無視するより先に面倒くさいという感情が勝る。もちろん無視したいと言う気持ちも無きにしも非ずだし、そうできるなら既にやっている。それより面倒が勝ると言うのは、つまり、バレンタインデーは周囲の盛り上がり方が尋常ではなく、私が無視するかしないかに関係なく巻き添えを食らう、ということだ。私が如何に巧みにこのイベントを避けて通ったとしても、寧ろイベントの方から私を追いかけて来るのである。これを面倒くさいと言わずして何と言おう。
だからこそ、私は世の中に是非とも宣言したい。バレンタインデーなどという無駄なイベントを即刻中止し、皆二月十四日は粛々と仕事に精を出すことに集中しろ、と。そうすれば二月十四日を迎えるための準備の時間も仕事に費やすことができるし、当のイベント当日も何事もないから仕事が滞りなく進む。あれだけ政治に関して「税金の無駄をなくせ」としつこいほどに言っている世の中ならば、この提案に賛成するのが当り前だろう。出来ることならば似たような理由で無理やり私たち仕事人を巻きこもうとするクリスマスにも同じ憂き目に遭っていただきたい。イベントを口実に不純異性交遊を行なおうとする世の中の不届きな男女など、根絶やしにしてしまえばいい。
そんなことを考えながら甘ったるい空気を垂れ流す社内の廊下をずんずん進み、自分のデスクに戻った。今日の昼休みは実に短かった。しかも妙に肩肘が張った。部署のデスクでは文字通り机を覆い尽くすほどの書類が私を出迎えた。さて、まずはこの書類に目を通して、必要な部分に押捺しなくては。
その時、ちょうど、胸ポケットに入れていた携帯のバイブレーションが作動した。電話だ。誰からだろうと、フラップを開く。得意先だったらスリーコール以内に応答しなくてはならない決まりがあるので一瞬焦ったが、ディスプレイにあったのは母親の名前だった。職場にまで連絡してくるとは何事かと思い、今度は別の意味で焦った。まさか、病気で倒れた、などではあるまいな。
「もしもし」
通話ボタンを押して、とりあえずそう声をかける。んあ、と間抜けた声が聞こえて、すぐに大丈夫だろうか、と心臓が撥ねる。
「ああ、陽子、元気かい」
だが輪郭のぼんやりした声で、いつも通りの平凡な応答が返ってきて、ひとまず良からぬ知らせではなさそうだ、と安堵する。母はもう七十近い。喋り方も覚束ないから、電話口にいてちゃんとした声が出なくても、いつも通り、という場合が多い。杞憂で済んだなら何よりだ。
「元気元気。ていうか今仕事中だから。職場にまで電話掛けてこないでって」
「お前、前に携帯だったらええゆうてたやないの」
「そう言う問題じゃないって」
母は電話口でははは、と快活に笑う。母との会話はいつもこうだ。どことなく言っていることがかみ合わなくて取り乱してしまう。話に収拾がつかなくなる前に、本題を聞きださねば。
「それで、今日は何なの」
ややぶっきらぼうとも取れるような呆れた声で言う。母はああ、うん、と相槌を打って明日の夕食の献立を告げるような口ぶりで話す。
「あんた今度さあ、東京行くってゆうてたやろ」
「ああ、まあ、行くって言っても出張だけど」
「ほんでなあ、今テレビでおいしそうなチョコ売ってる店が東京の駅にあるって聞いてな、買って来てもらおう思うたん」
仕事中に買い物の連絡。しかも場所は東京、二月の十四日、チョコレート。まさか、とは思ったが、おそらくそのまさかだろう。
「何でもバレンタイン特集らしいてなあ。東京にはおいしいもんが仰山ある、っていっとったで」
やっぱりか、と何だか残念な気持ちさえしてくる。振りほどいても振りほどいても追いかけまわされている気分になる。なぜこうもバレンタインは付きまとうのか。母の言葉は続く。
「都会の若い子ってええねえ、あんなおいしそうなもんいくらでも買っていくらでも食べられるんやろ。若いもんはああいうのをバレンタインにプレゼントして好みの男を捕まえるんやて。ええなあ、羨ましいなあ。男も女も楽しそうやんか。若ければあたしもああいうことしたかったわあ。そうそう、そろそろあんたもいい加減嫁の貰い手探さんとアカンで。女は若いうちが花やって。で、今年はああいうのに挑戦してみたらええと思うねんけど。どや、誰かあげてみたい人とかおらんのか」
やはり私にとって、あのイベントほど忌々しいものはない。