第一部 超怒級怒濤重低爆音 5
「ただいま」
まだ慣れない新しい自宅。鍵を取り出そうとするが東京の時と違っていつも空いている。
隣りにある工房は朝から晩まで常に誰かが作業をしていて工具の音や父と職人さんの話し声が絶えない。
それに稼働し始めたばかりで慌ただしい中、県内だけではなく全国の自治体からの見学や視察がひっきりなしだ。
両親から遅れること2週間ほどでこの新宅へ引っ越してきた。それでも仕事のためだいたい東京へ滞在していたこともあってこの賑やかさはとても新鮮だ。開きかけたドアを一旦閉めて工房の方へ向かう。
「お嬢さんお帰りなさい」
父と一緒に移住してきた職人さんが挨拶をしてくれる。家族以外の人間が待ってくれていて「お嬢さん」というのはとてもこそばゆい。
安田家は全員が忙しい。父は調律、修理と顧客を抱えて走り回り、母は会社でピアノのみならず楽器全般の販売や音響設備の販売などを取り扱う。
娘はコンサートや録音、取材や撮影が不定期なだけでレッスン日以外だいたいは「おかえり」を言い迎える立場だった。玄関を開けて暗い部屋に灯りをともし、エアコンをONにしてから洗濯物を畳んだり洗い物があればそれを済ませてから宿題に取り掛かる。それが常だった。
自分がピアノを弾き始め無い限り、ノートに走らせるペンの音や空気清浄機のノイズしか響かない自室。TVは元々見ないしスマホの着信音が時々割り込むくらい。マンションだったので、時々廊下を歩く足音や話し声が微かに漏れ聞こえるだけ。
新居での静寂は夜間に訪れるだけだ。
有紀は
「お疲れ様です」
と挨拶を返す。
職人は4人。ベテラン2人と新人2人。
日本でピアノを製造している会社は大きなメーカーしかない。手作りのピアノメーカーに立ちはだかるのは鉄骨だ。ピアノフレーム用の鉄骨を作ってくれる会社が少ないのだ。
鋳物で15tを超える弦の張力に耐える強さ、振動し音を響かせる柔らかさを併せ持つ構造で120Kgほどの重さに抑えることが困難なのだ。
健太郎は国内で製造できる技術を持つ鉄工所やチャレンジしてくれる鉄工所へ協力と支援を与え、出来上がった製品をストックし今回の開業に備えておいた。さらに輸送費はかかるが、昔働いていたコネで海外からのルートも抑えてある。
響板は自治体や大学と共同開発の圧縮木材。伝統の技術と新しい試みの最先端。モノづくりの熱を帯びた工房はまだ日が浅いが一体感が強い。
「有紀、お茶を淹れてくれないか?3時の休憩を取ってないんだ。まだまだお偉いさんが来るものだから手が止まる」
「はーい」
まだ身体が重い。音が血管の中を駆け巡りあらゆる神経を撫でまわしている。結局あの「ショパン エチュード作品10 第4番」のタイムアタックは1:53に終わった。
凄まじい形相で悔しがっていた茜。
咲には辛いらしくミストーンが2か所、それでも十分凄い。毎度スピードアップに付き合っているわけだから。
陽子はまだまだ底が見えない。汗もかかず物足りなさそうにしていたものだ。
急須から湯飲みへお茶を注ぎ運ぼうとするとスマホが鳴った。
「・・・・昇さんからメールだ」
お茶を出し、部屋で素早く着替えると杉原家へ走る。メールの文章は「急いで来い」だったから。
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「はぁ、はぁ、お邪魔しま・・・す」
全力疾走20分。タクシーを使えばよかったと後悔した。息を切らした有紀を出迎えてくれたのは茜だった。
「ゆ有紀ちゃんに会わせたい人がスタジオに来てる・・・・」
もじもじしながら上げてくれた。彼女も慌てて着替えたのだろうか?スカートがめくれて下着が見えているのを教えてあげると真っ赤な顔をしてバサバサとスカートを直す。
「見た?」
「はい・・・・」
「絶対秘密にして・・・・」
涙目でスカートを拳に血管が浮き出るほどに力を込めて握り震えて訴える。
「大丈夫、秘密にする。約束」
気を取り直し、呼吸を整えてスタジオへ降りていく。防音扉を開けると耳に飛び込んできたのは、五感を刺激する美しい分散和音。一呼吸置くとそこから静寂をそっと撫でていくメロディが導入される。
怪しげで幻想的な展開は照明を落とし乾燥したスタジオの空気を湿らせるように滑って行く。正確無比な演奏、とてもカッチリ硬さを感じるのに柔らかでどこまでも響くような包容力も感じさせるタッチは今まで聴いたことがないほど秀逸。
(これはいったい誰が・・・・・?そしてこの曲は?とても素晴らしい曲だけどまったくわからない)
年代も作者もわからない。映画や演劇の曲だろうか?これほどの名曲を知らなかったのが悔しい。譜面があるならもらって帰りたい。
真剣に録音をしている昇が茜と有紀に目線は向けないまま手招きをする。招かれるままにピアノのブースが見える角度まで歩くと
「あれ?ナタリア?ナタリア・ヴァシリエヴィッチですよね?」
『ショパンコンクール第2位ナタリア・ヴァシリエヴィッチ』
ウクライナ出身の全世界が注目する美少女ピアニスト。しかし彼女が目撃されるのは滅多にない。それこそ目撃者がSNSに画像をアップすれば大騒ぎになる。
コンサートもあまり開かない。それどころか公演決定、チケット完売!してからの当日ドタキャンを何度も繰り返す。
将来を嘱望されキエフの音楽院へ進学するもまったく出席せず世界放浪をスタート、ストリートピアノでゲリラライブをやってみたり、旅先で知り合った人の自宅からライブ配信してみたり、音楽家の中でも『素行不良』と『天才』の真っ二つに評価が分かれる問題児。
コンクールも実力ではなく日ごろの行いを嫌った審査員が1位に反対したから・・・というのは誰もが知っている。ちなみに彼女が出場した年は1位該当者はない。
そんな放浪ピアニストだが金髪碧眼、妖精のような顔立ちの女性だから人気はある。動画サイトにある彼女のチャンネルは登録者数11,000000人、再生回数は2億を超える。
そんな彼女がなぜこの杉原家に・・・・?
自分が焦がれに焦がれるコンテストに参加し、2位とはいえ同世代では確実に世界トップ5に入るピアニスト。自分は必死で芸能人まがいの活動までして音楽に食らいついているのに、彼女は飄々と世界を渡り歩いているだけ。それなのに音楽が付きまとって離れない。
疑問が駆け巡ろうとするが美しい旋律がそれを頭の片隅へ追いやろうと鼓膜から入り込んでくる。茜のギターで燃料を投下された音楽の鼓動はナタリアの紡ぎだす音に完全に滾っている。
曲は激しいオクターブの上昇から転がるように中近東のようなミステリアスさへ、そしてまた静かなメロディへ戻り、惜しむようなタッチでヨナ抜き音階を上昇し幕を閉じた。
なんと素晴らしい演奏。なんと素晴らしい夢のような時間。
「OK。ナタリア素晴らしかった。驚いたよ」
昇、茜、有紀の3人がブースへ入っていく。昇は日本語ではない言葉でナタリアへ話かけた。そうか、ヨーロッパにいたのだから英語以外にも話せる可能性はある。ナタリアはウクライナ出身だからウクライナ語だろうか?
「はい!ありがとうございます!」
ナタリアは日本語で返事をしている。喋れるのか?
「知っているだろうけど紹介しておく。クラシック界の問題児、ナタリアちゃんでーす」
昇がナタリアを拍手で紹介する。茜もぱちぱちとまばらに拍手をする。
「この人誰ですか?名前があなたを知る」
うん。
日本語は話せるけど倒置法が少し激しいみたいだ。
「わたしは大ファンのノボルです!日本でヘヴィメタルがいつかをやりたい!今日はピアノアレンジをノボルの曲に変化させたわたしの録音の日です?」
誰か通訳を・・・・。
「ナタリアはね、お父さんのファンで、今日からレコーディングなんだよ」
茜がナタリアと写メを撮らされながら説明をする。撮影した写メはすぐさまSNSへアップされる。またナタリアの位置探しが始まるのだろう。
「こちらは安田有紀ちゃん。ナタリアと同じピアニストだ」
茜の胸にほっぺを擦りつけて感触を楽しんでいるナタリアへ昇が有紀を紹介する。
「無知がわたしを謝らせます。あなたのことは初めて聞いたことがありません。よろしくユキ」
握手をするとぶんぶんと上下に、腕で縄跳びでもするかのごとく激しく振り回された。
しなやかな指、よく手入れされた爪先。透き通るほど白く薄い皮膚は血管も見えず、完璧に作られたドールのように美しい。
「はじめまして安田です」
「日本で一番の売れっ子だぞ。ナタリアはあっちこっちフラフラしてるから知らないんだろう?アニメはたくさん観てるのにな」
昇がビデオカメラの画面を見ながら映像をチェックしている。今の演奏もネットに流すのだろう。
「あの・・・・弾いていた曲はなんていう曲ですか?」
ナタリアはニコニコしながら答える。あすなろ抱きで茜の胸を鷲掴みにしながら。
「これは曲がノボルなのですよ」
ポリポリと頭を掻きながら、
「昔、ずーっと昔に書いた俺の曲をピアノアレンジするっていうんだよ。恥ずかしいからやめろって言ったんだけど・・・・。さっきの曲はヘヴィな疾走曲をナタリアがアレンジしたものだよ。俺は口出ししてない」
茜は呼吸ができないほど暴れて脱出を試みるがナタリアはがっちりと抑え込んでひたすら胸を揉んでみたりくすぐってみる。おもちゃ扱いだ。
「とりあえずコーヒーでも飲もう。ナタリアも到着してすぐ録音したんだ。休憩しないと良くないぞ」
スタジオから出てリビングへ。みのりにコーヒーを淹れてもらいポットで運ぶ。今日はお店に常連さんが長居しているだけでそんなに忙しくはないみたいで、鳥のレバーパテとライ麦パンも添えてくれた。
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午後の柔らかな日差しが差し込むリビング。コーヒーのいい香り。
そしていつもはおどおどしている茜が、もちろんおどおどしているけれどナタリアとは幼馴染のようにはしゃいでいる。
そのナタリア・ヴァシリエヴィッチこそ自分が出場したいコンテストの出場者。しかも実力は誰もが認める折り紙付き。
そんな人間と悪魔のような爆重低音光速シュレッドを繰り出す無名のギタリストが『この自分を差し置いて』仲良くしている。
私を知らないのはいい。世界からすれば私は無名だ。彼女も同じ無名、しかも公には何もしていないまったくのアマチュア、それなのになぜ彼女に関心を向けるのか・・・・。
「有紀ちゃん、昨日言ってた『ショパンコンクール第2位の人間とのコラボ』ってナタリアのことなんだよ。日にちも決めてないのに突然来やがったから急きょご対面になったわけだけれど」
パテをパンに塗りもしゃもしゃと頬張り幸せそうな表情のナタリア。美味しそうに食べる。予定を立てようにも放浪しているから気が向いたタイミングに気が向いた場所へ行くのだろう。
指についたパテをちゅっと唇で吸い取ると有紀のほうをじっと見てくる。ニヤニヤとしながら英語ではない言語で話始めた。
「Ви ревнуєте, чи не так?Це не заздрість до таланту, а ревнощі відносин між мною і Акане. Ох ... як це страшно?Я чув, що можу зіграти з чудовим піаністом, і я приїхав до Японії. Я розчарований цим. 」
「あの・・・・なんて・・・・?」
有紀は昇へ尋ねる
「なるほど・・・・有紀ちゃん、君は嫉妬してるな。実力でナタリアに自己紹介をし肩を並べるべきだ。茜とナタリアが仲がいいのは俺がいるという茜にとっての幸運、そして茜のギターを認めているからだ。ナタリアが我儘し放題のように見えるけど彼女はプレイを楽しみたいだけで金とか名誉なんてまったく興味がないからね」
「嫉妬・・・・?」
「君が日本でどれだけアイドル人気があろうとナタリアは気にしない。ナタリア本人が自分へ向けられるアイドル的視点をまったく気にしていない。だが現実茜が先に知り合った、それは覆らない正解だ。それをなんとかしようとしないで悪い感情を持つのは嫉妬だ。ナタリアはピアニストならピアノで語れと言っているんだよ。見抜かれているな・・・・」
くくくっと笑って煙草に火をつける。ナタリアは最後の一口を放り込みコーヒーで流し込むと
「食べないのですか?それならあなたのわたし食べますパンを」
有紀の手を付けていないパンをひょいっと掴んで食べてしまった。
「あっ!」
なんて行儀の悪い・・・・。でもナタリアって歴史ある名家出身じゃなかったっけ?
「世界でも指折りの天才ピアニストが無名のアマチュアギタリストと仲が良い。だからどうした?ってことだわな。有紀ちゃん何か演ってみなよ。これはチャンスだ。ナタリアは次いつ捕まえられるか俺も保証できないからな」
なんて日だ。
メタルの轟音に晒されたあと、今度は世界トップレベルのピアニストの前で弾く。ジェットコースターみたいな生活だ。休まる暇がないとはまさにこのこと。時間ではなく緊張と緊張の間が極端に短く、心臓がきゅっと痛むような感覚に襲われる。
音楽ってこんなに体に負担がかかるものなのだな、と。
「バラード、バラード第1番があなたを弾くです。わたしは希望しますそれを」
『バラード第1番ト短調作品23』
気まぐれで評価真っ二つのナタリアは自他ともに認めるショパン弾き。難易度が難しいほどに冴えわたる技巧と詩情を歌い上げる演奏は批判者でも一目置かざるを得ない。その彼女がショパン定番曲を指定してきた。ここで怯んではいけない。
「わかりました。じゃあ準備運動してますので先にスタジオ入ってます。」
ストレッチと運指練習をして温める。コーヒーを飲んでパンを食べ終わりちょうどいい頃合いで3人が降りてきた。
「さっそく弾きますね」
我ながらあっさりと言ったものだ。なぜだろう。よくよく考えたらコンサートと違って咳をする人もおかしなタイミングでトイレに行く人もいないのだ。レコーディングと似たようなモノだ。違うのは粗探しが『好意的か批判的か』のただ一点だけ。
おそらくショパンの楽曲で『別れの曲』、『革命』『子犬のワルツ』『葬送行進曲』と並んで有名なこの曲。
目を閉じる。有紀はあまり間を取るタイプではない。自分の中に常に引き出しがあってそこから曲ごとに感情やテクニックを引っ張り出してくるイメージで演奏をする。日ごろの練習を積み重ねている以上のモノは出るわけがないと考えているからだ。
イントロからオクターブユニゾンから憂鬱な第一主題へ。強弱は大げさでなく、しかし流れぬよう、置きにいかぬよう丁寧に。悲しいのだがどこか非現実的な浮遊感も感じるとらえどころのなさ。ここは地味に演者の腕を選ぶ。
この曲はふわふわと捉えどころがない感じがしていつも有紀を惑わせる。たどり着く結論はいつも音の配置、羅列として美しいのであってこの曲を介して表現することは自分の中にまだ無いのではないだろうか。
緊張感を高めるアルペジオ、スケルツォ で熱く語ったあとは穏やかで誌的に歌う。そこへだんだんと感情を和音へと乗り移らせながら複雑に指を弾ませ大きな跳躍ある連続フレーズをこなす。
軽快で技巧的なパッセージ、最後を飾るPresto con fuocoの劇的なコーダは 一番の聴かせどころ。
激しさと緊張感、美しさに不協和音で戸惑わせながら響きが滑らかに動き聴者の鼓膜から劇的に飛び込んでいった。
この曲を作っている時期にショパンは大作を連発している。この曲が劣ることはけしてない。たぶん他の曲よりも『込められた意図』がわかりにくいだけなのではないか?と思う。
それに国への愛とかそういうものが有紀はまだわからない。理解する努力をして唸ってみてもやはり音から受ける印象からタッチは決まっていくもので、天才特有の『どんな解釈も成り立ってしまう』素晴らしさはむしろ戸惑う。
そこへショパン独特の技巧による処理の仕方、普通ならガチャガチャとしてしまうところを美しく響かせることへ神経を回されるものだから苦しくなっていく。
簡単に言ってしまえばまだ有紀は若すぎる。でも老練になって枯れきってしまうとまた味がなくなる。少し狂気のような切れ味鋭い技も併せ持ってこその曲、彼の人生そのものの苦難を現わせる旬を逃さないことがショパンを弾くことの最大の試練なのかもしれない。
最後の音を締めくくる。
これほどに集中できた演奏がかつてあっただろうか?しかし弾いた後の爽快感はない。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息苦しい。咄嗟にピアノへ前かがみに身体を支えて倒れるのを阻止すると、その反動で喉が一気に開き酸素を取り入れだした。
「Дійсно, це чесний тип звуку і для себе. Існують також технології, які не перебільшують і не зашкоджують. Noboru, я буду співпрацювати з цією дівчиною OK
なるほど、音にも自分にも正直なタイプですね。誇張もしないしかといって損ねることもない技術もある。ノボル、私この子とコラボOKします」
またウクライナ語で昇へ一気に伝えてから有紀へと駆け寄り抱き付いた。
「うーん、ユキは好きに私をなりました」
ほっぺたをすりすり、さらにはキスまでしてこれでもかと過剰なスキンシップをしてくる。ナタリアは距離感が独特すぎる。だが認めてもらえたのは嬉しい。
「あ、ありがとう・・・・・」
「おめでとう、有紀ちゃんまず第一のハードル突破だね。これでナタリアとコラボ決定だ」
「コラボって何をするんですか?」
やっと呼吸が整ってきたところ、ベタベタくっついて離れないナタリアを押したり引いたりしながら昇へ尋ねる。
「どれがいい?ライブ、アルバム、ツアー。ナタリアはどれでもやってくれるぞ~。条件はアニメグッズとコスプレ衣装の提供、そして俺の曲をピアノアレンジで録音、で、一番重要だったのがコラボ相手の実力が自分と相応しいか?だったんだけどこれで全部クリアだからな」
「え?しゃ社長はなんて・・・・」
「社長は有料の生ライブ配信を押してたな。お金かかんないし。俺はツアーを押す。このナタリアがツアーを承諾するなんてきっと天変地異が起こるぞ」
笑いながらナタリアを引き剥がす。面白いもので昇の言う事は大人しく従うのだ。手足をバタバタさせて悔しがることは悔しがるのだけれども。彼女にとって『杉原昇』は憧れであり尊敬に値するミュージシャンなのだ。ジャンルも楽器も関係ない、良いか悪いかだけで平等に判断する彼女は敵も多いが、それだけにその才能に魅かれるし、また彼女が興味を持つ才能は素晴らしい。
「お腹が私を空かせました!」
おもちゃを取り上げられた子供のように昇の背中を拳で叩きながら空腹を訴える。そういえばそろそろ晩御飯の時間だ。パンを食べて時間は経っていないけれど相当カロリーを消費したらしく有紀も軽く空腹を覚えた。
「私は帰ります。今日は母がいないので私がご飯を作らないと」
有紀は電話でタクシーを呼び杉原家を後にした。
タクシーに乗り込みドアが閉まる時に見送りの茜が
「良かったね」
と言ってくれた。
有紀はメタルとかエレキギターだとかそういうので順列をつけていた。
どんなに綺麗事を言ってもクラシック音楽だけで勝負したいと思う人間にとって『本格ではない』と感じてしまうこと、それが出てしまった。そしてナタリアという自分の目指す領域を歩くピアニストが茜や昇というメタル畑の人間と親しくし、認め合い、彼らが声をかければ来日し仕事を引き受けてくれる事実に打ちのめされた。
そしてバラードを弾いて私を認めてくれたこと。
達成感はある。それでも限界を超えたような強い疲労のほうが強くて喜びがあまり出ない。乾いた飢えはじりじりと浸食していた。
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「そういえばナタリアはなんでもっと褒めてやらなかった?いい演奏だったじゃないか」
塩辛を一口、それから日本酒を舐めて昇はうまそうに喉を鳴らす。
「ノボル、私が世界を旅しているのは何故かわかる?」
バジルパスタを飲みこみ口を紙ナプキンで拭取りながら問いかけに問いかけで返す。
茜はパスタをくるくるとフォークを巻くもほどけてしまうので必死にくるくる何度も回している。
「なんとなくは」
「いい演奏には技術と同じくらい人生経験が必要だと思うから。家に引きこもって練習するのは今までの人生でやってきた。これからは外に出る時間」
「親御さんはいい顔してないだろう?心配してるんじゃないの?」
昇の質問はナタリアの想定内。
「カンカン。我が家のルーツは貴族。しかも家業がウラン関連で裕福ですけど、国は腐敗しボロボロ。まだそういうのをどうにかできる力はないし、やったら命が危ない。けれどいつか祖国を助けるために外に出ることを決意したの。そういう私と釣り合うには彼女はまだ経験が足りないでしょう?」
「まあ日本だし?平和だし」
「そういう色々なことを叩き込んでくれるのはきっと茜よ」
このやりとりもウクライナ語。英語は茜もわかってしまう。内緒にしなくてもいいけれど、性格上きっと成り行きに任せた方がいいはず。
昇と同じくらいナタリアも分かっている。
茜はフォークをあきらめて割り箸でパスタを食べていた。