第七話
僕は結構なことに幸せだと思う。
人間関係を円滑に進めるのに大事なことは相手に深く立ち入らない事と、自分を上手く納得させる事だと何かで読んだことがある。
僕は全くその通りだと実感した。
理恵のどんな時も崩れない穏やかな表情の理由も、どこで働いているのか、僕のことをどう思っているのか。
どれも気にしなければ生活を順調に送れることがわかったのだから。
矜持や猜疑心などはどこかに押しやる事ができるものなのだ。
「明日から連休だけど、予定は無いのかな?職場の同僚で仲のいい人を誘ったりとか」
理恵の仕事についてなんとか聞き出せないものかと策を講じてみたが慣れない為か言葉が非常にぎこちないのが自分でも分かる。
「いませんよ。職場の方はみなさん、お忙しいんです。それに、他人といるよりは家族でいる方が私は好きですよ」
そう、とだけ答えて僕は考え込む。
あくまで、僕の勘では理恵は普通の会社には勤めていない。
帰宅してくる彼女には仕事帰りの雰囲気が感じられない上に、世知辛さというのを全く知らないように思える。
それなのに、理恵は近所のスーパーで食品を買ってくるし、家賃だって払っている。
そのことが不可解で仕方が無い。
悩んでしまうことは理恵を信頼していない事になる。
決して信頼していないわけではない。
だけど、その秘密が僕にとっても関係のあるものなのだから気になってしまう。
気にしてはいけないことは百も承知なのだけど。
「直也さん、どうしました?また、考え事をしてましたね」
知らず知らずうつむいていた顔を上げるとそこには理恵の常の穏やかな顔があった。
「どうしようもないこと以外なら、私に話してくださいませんか?」
約束を破る事はどうしようもない事なのだろうか。
少なくとも、理恵が何も答えられないだろうということぐらいは分かる。
僕は理恵の顔に手を伸ばし、表情だけは穏やかで、でも少しだけ潤んでいる瞳を抱き寄せる。
気にしないことで幸せを得られるのなら、甘んじて受け入れることを選びたい。
理恵を好きなだけ抱いてからいつものように意識を失った。
本当にいつもの通りなら僕はそのまま朝まで眠ってしまう。
たまたま、起きた僕が横を見ると理恵がいなかった。
不思議に思って、部屋を出てみると明かりも何も無い。
理恵はどこへ行ったのか、眠いけれどあと少しだけ探そうと思い、部屋の中を回って見る。
トイレにも、キッチンにも部屋にも理恵はいなかった。
最後に玄関に行くと、何の変化も無いように見えた。
あまりの眠たさに部屋に戻りたい、だけど、何かがおかしい。
玄関の鍵がかかっていない。
「無用心な」
鍵を閉めようとすると、とつぜん真っ黒な影が入ってきた。
その影は僕に気をとめることも無く奥へと進んでいく。
慌てて、人の形をした影に手をかけ、こちらに身体を向かせる。
それは正しく人で、顔もあって、目もあって、口もある。
どれもが良く知った形であるのに、僕には分からなかった。
なぜなら、そのどれもがあまりに無感動に存在していたから。
「理恵」
聞こえないフリをしていたのかしばらくすると、顔を上げる。
そこにはいつもの穏やかな顔があった。
「直也さん、夜も遅くなりました。早く休みましょう」
ああ、聞こえないはずの溜息を漏らし寝室へ戻る。
布団にもぐりこみ、目を閉じる前に時計を一瞥する。
午前0時2分