第六話
僕にとっての入院生活とは、つまり禁欲生活であった。
ただ白い部屋を日がな一日眺めている事を強制させられるのは拷問以外の何もにも感じられなかった。
病室での理恵とのふれあいが決して嫌いだったわけではない。気が急いてしまうというか、さして多くない荷物を持って手早く新居に運び入れ美しい理恵と名実共に夫婦になりたいと思っていた。
でも長い長い我慢の日々もいつかは終焉を迎える。彼女のお蔭で、僕は2週間ほど早めに退院する事が出来た。
引越しついでにしっかり礼を言っておかなくてはいけないと思う。
「こんにちは、直也さん。荷物はもう届いてますよ。でも、業者さんに頼むほどの量でもありませんでしたね」
扉を開けるなり、常の穏やかな声で迎えてくれる。
「意地かな。それに自分で持ってくるにはちょっと多い気がしたから。それにこの足も」
病室で理恵が懸命に手で触れてくれたためか、怪我は驚くべき速さで回復していったのだが左足だけはどうしようもなかったらしい。
理恵が一番長く触れていた部分が左足だったので、その頃から何となくだけど予感はしていた。
左足が思うように動かないのは不便だけど、そんなに気にする事でもないように思えてきている。
せめて、痛みだけでも失くそうとする理恵の献身的な態度を見てきた僕がこれ以上厚かましくなるわけにはいかない。
そう思うことは理恵への愛情なのか。
本日の夕食は理恵の手作りだった。
僕もこれから食事を作らないといけないので、理恵から調理方法を聞きながら手伝いをした。
理恵は僕が失敗しても優しかった。注意する時の声が色っぽい艶となって僕の心に響き、「こうするんですよ」と僕の手に触れて来た時は、僕の心臓の鼓動は早くなった。
理恵の味付けは文句なしに美味しいもので、退院祝いということで買った少し高めのワインと非常に良く合っていた。
ほろ酔い気味の頭で先にシャワーを浴び、理恵が入れ違いに浴びている間にビール缶を一つ空けた。
一緒に料理をしていた時は興奮していたが、いざ寝る時を向かえると我ながら可笑しい事に緊張しているらしい。
缶を持つ手が小刻みに震えている。
このまま寝るのもいいかもしれない、退院したばかりなのだし疲れている、と弱気な考えが起こったりもする。
興奮のせいか、それとも安酒だったせいか味など良く分からなかった。
ただ、腹の中が熱くなっていく感覚だけが心地よかった。
あれこれと考えるのにも飽きて、酒も切れた頃に、浴室の扉が開いた音がして理恵が出てきた。
理知的、そんな言葉を忘れたかのように駆け寄って理恵を掻き抱いた。
彼女は何の抵抗も示さなかったと思う。
ただただ、僕を穏やかな目で見つめていた。
反して、僕は必死で穏やかな理恵を崩してやりたくて血管が沸騰するようだったけれど、結局気づいたときには横で理恵が寝息を立てていた。
しばらくその顔を眺めながら寸刻前の自分を思い出してみるが、情けなくなって止め、理恵の額に手を延ばす。
今、気づいた。
理恵の額はとても美しい曲線を描いていて、触った感じもしっとりしていた。
僕はこの女が好きなのだろうか。
「どうしました。眠れませんか」
僕の髪に触れながら、頭を抱きかかえる。
「ゆっくり休んでください」
身体を包まれて耳元で呼吸が聞こえるためか、僕は凄く脱力してしまい、瞼が上がらない。
「おやすみなさい、直也さん」
おやすみ、とも言えないまま眠りに落ちようとする刹那、理恵の後ろに時計が見えた。
時刻は21時52分。