第三話
誰かが僕を呼んだ気がした。
気のせいで済めばいいと思ったのは、もう少し本当に一人で居たかったからなのかもしれない。
でも、そんな都合いいようにはならない。僕の名前は実際に呼ばれていた。
「直也、起きてるの?」
同時に肩を揺さぶられる。
車に轢かれた重病人に何という扱いをするのか。
無視してやろうと思うも何ともしつこい。
「直也、もう起きてるんでしょう」
さらに身体全体を揺さぶってくる。
我慢も限界に達し、普段よりも声を荒げて止めさせる。
「うるさいよ。それに鬱陶しい」
折角声を出したというのに、なぜか返事の変わりに肩を叩かれる。
「やっぱり、生きてたんだね」
「医者がそう言ってたんだ。勝手に殺してやるな」
薄目を開けて確認すると、やはり両親だった。
「目は見えてるの?」
「医者の言葉を忘れたのか」
答えるより前に父親が言葉を挟んでくる。
「見えるよ、ちゃんと。多分だけど、視力も落ちてない」
口が先に言葉を紡いでしまったけど、実際に良く見える。
それに耳も悪くなっていないし、言葉もつかえることが無い。
「本当に良かった。生きていただけじゃなくて何処も悪くないなんて」
「何処も悪くないかはまだ分からんよ」
父親を無視して母はどこか浮かれ調子のまま僕のほうに身体を近づける。
「生きていても、目も見えない耳も聞こえないじゃ理恵さんが気の毒でしょ」
「理恵って誰かな?」
途端に両親の顔が引きつる。
「頭を打ったとは聞いたが記憶も飛んでしまったか」
あまり動じた様子が無いのは父親だが、母は顔を覆ってしまっている。
いつも見ていた光景なので、気にする事はない。
だけど、理恵って誰なのだろう。
「じゃあ、私達は行くわ。もう少ししたら理恵さんが来てくれるそうよ」
一通り、心配するフリをした後ににこやかにそう告げて帰っていた。
聞きそびれたままになりそうだったので、僥倖に思えて仕方が無い。
ただ、待っているだけで向こうから来てくれるなんて。
「こんにちは、一応初めましてですか。理恵と言います。上橋直也さんですよね?」
病室に来るなり、僕に一礼し、中音域の声を出した。
「あなたは僕が死に掛けている時の」
「ええ、そうです。でもあなたではありませんよ、理恵です。前は条件のことを伝えてませんでしたので伝えにきました」
「あの時のことは本当だったんだ」
「ええ。本当です」
何か言い返そうと思ったが、理恵がカバンの中から取り出した封筒に気を取られてしまい、言うタイミングを逃してしまった。
「早速ですみませんが、この書類にサインをいただけると幸いです。判子はご両親からいただきましたので気になさらず」
彼女が差し出した紙には婚姻届とあった。
「どうして、っていう疑問でしたら、夫婦になるためですとお答えします。だから、書いて下さいね。勿論、直也さんには治療に専念してもらって、届けは私がします」
僕が言おうとすることが先に言われる。
「あ、でも。条件と言うか、契約があるんです」
聞きたいことは他にもあったが、さしあったて気になることから無くそう。
「その契約って?」
目の前の彼女は楽しそうな声で続ける。
「契約というのはその結婚生活のことなんですけど、22時から0時までの行動には絶対干渉しないでください。勿論、付いて来たりしてもいけません。それと、白い手紙。つまり私の持っている手紙に絶対に手を出さないで下さい。それと、私の仕事に関しては何も質問しないで下さい」
「それは守らなければいけないのかな。そもそも君と結婚して僕に何かいいことがあるの?」
「さっきも言いましたけど私と夫婦になれます。仕事も私がします。直也さんには家事をしてもらう事になります」
仕事をしなくていいというのは、入院して動けない僕には魅力的な条件だと思う。
だけど、この妖しい女の言い分を信用するのは危険な気がする。
「少しだけ考えさせてもらってもいいか?」
目線を下に向けた時、柔らかい何かに包まれる。
「いけません。私は直也さんとどうしても結婚がしたいです。直也さんは私の事が嫌ですか?」
前の彼女と別れてからそう時間は経たないはずなのに、久しぶりに感じる温みが心地よかったのか。
あまりにもいきなりの事で、心構えも何もできていなかったためか。
「綺麗な君との結婚が嫌だなんて、思ったりしないよ」
僕は気づかないうちに理恵と結婚すると頷いていた。