第二話
誰かに足と腕を掴まれ車から降ろされようとしているのが分かった。
意識はぼんやりとしているが言いようの無い恐怖を感じる。
だけど、自分の意思で指程度しか動かせない身では何も表し様はない。
その時はただ歯痒くて、いっそ死んでしまいたいとさえ思ってしまっていた。
忘れていた苦痛が再びやってきた時、考えは全て消し飛び、僕は意識を失った。
人の声、再び他人に身体を触られる不快感で意識が少しだけ冴えてくる。
目を開けると医者が僕の体に馬乗りになって心臓を叩いているのが見えた。
叩かれる度に僕の身体は跳ね上がる。
自分の身体のはずなのに、殆ど実感が無い。
少し前までは触られている感覚だけは残っていたのに今はもう自分の身体を忘れてしまったような気さえ起こる。
その後すぐに、自分の体以外の全てが上に引っ張られていくような感覚に襲われた。
上を見やるも、何も見えない。
それでも、どこか高いところへ連れて行かれるような感覚に恐怖を感じる。
視線を下に向けると、やはり自分の体があった。
焦っているはずなのに、これが死ぬことかと考える自分がいるのがどこか可笑しい
死にかけた人っていうのが同じ様な事を言っていたのを思い出したから。
可笑しくて、情けないくらいにパニックに陥っているけれど、僕は死にたくはない。
必死で掴める物を探すために手を延ばす。
壁も、柱もスチール製のパイプも何も掴めない。
幽体離脱という言葉がやっと思い浮かぶも、僕の知る幽体離脱はもうちょっと何か出来た気がする。
荒涼とした何も無い世界、それはいいとしよう。
でも、夢遊病者のようになった挙句に自殺したとされてはたまらない。
ふと、暖かい空気に包まれた気がした。
自分の体以外の部分が何かに包まれている感覚は懐かしい感じがする。
上を見ていた目をそちらに向けると、黒い衣服の若い女性が僕の腕を抱えていた。
僕は何を考える事もなくその女性の身体にすがる。
不思議に生々しくも肉感的な感覚だった。
もしかして、その服一枚だけなのか。
その女性の顔の在るらしいほうを見ると、その身体にとても似合った顔があった。
綺麗でどことなく犯しがたいような顔が。
だからと言うのではないと思うのだけど、僕は思わず変なことを口走っていた。
「こんな綺麗な女性は今までに見たことが無い」
死にかけていたのに下卑た事をしたものだと思う。
それだけこの女性が魅力的だということなのだろうか。
引っ張られるような感覚が消えていき、足が地に着いたような気がした。
とても安心したような、勿体無かったような気分をかみ締めた後に目の前の女性を見つめる。
女性は幻影ではないというように僕の目を見つめ、はっきりと微笑えむように口角を上げる。
その表情も素敵だと言いそうになった。
目の前の女性は神秘的という言葉が何よりも似合う。
綺麗なのは容姿というよりその雰囲気が。
そして、その身に着けている黒いイブニングドレスもとても良い。
「本当に綺麗だ」
「もしよかったら、私と一緒に暮らしませんか?」
僕のたわ言を一蹴し、初めての言葉が彼女から返される。
しかも、それは今の僕にとって凄い内容だった。
そのことに何よりも驚いてしまい、内容を理解する事はできなくなっていた。
「一緒に暮らさないなら、私はあなたを掴んでいる手を放します」
遅れて、理解する。
今、選択する必要があるのだと。
だけど、目の前にいるのは人間ではない気がする。
彼女にはどこか、絶対に異質な雰囲気を感じる。
「どうします?」
浅はかなことに女に別れを言い出され、今度はこの世の者とは思えない美しい女性から一緒に暮らさないかと誘われている。
一体何が起きているのか。
よく分からないが、これだけは言える。僕は生きたい。
出来ればこの女性と。
「僕でよければ一緒になって頂けませんか?」
僕自身を救うために僕はこの女性を必要とすることに何の疑問も抱かなかった。