第二十三話
「お帰り、理恵」
美しい能面のような顔に向けて言う。
当然、その表情がお帰りなどと言うためにゆがむわけは無い。
理恵は僕を無視して、靴を脱ぎリビングへと入っていく。
僕は後ろにつくようにして戻る。
リビングの時計は23時58分となっていた。
あと、二分でいつもの理恵に戻る。
何よりも有り難いことだったが、今に限ってはかなり胸がいたくなってしまう。
せめて、裏切る間だけは何も無い理恵でいてはくれないだろうか。
「話がある。手紙についてなんだけど」
手紙という言葉で能面がこちらへと向けられた。
そして、視線をテーブルへと移して、白い手紙をじっと見つめる。
しばらくしてその視線は僕にも向けられる。
「そう、ですか。そうなってしまいました」
顔は能面のままなのに、声は常の理恵の穏やかな声になっていた。
時計を確認すると、0時と見えた。
「読んでるなんてことはありませんよね」
どうして、2時間で理恵は元に戻るはずなのに。
僕が約束を違えたからだというのだろうか。
そうせざるを得なくしたのは理恵だというのに。
「読んではいけないのか?」
口を開けずに発したために思うよりも低い声が漏れた。
理恵が少し驚いたように目じりを上げる。
「いけません。だから、早く返していただけませんか?」
そう言いながらテーブルの上へと手を延ばす。
「嫌だ」
言葉と一緒に先に手を延ばす。
そして、手紙を掴みあげてみせる。
「その手紙を持っていてもなにもありません。それに読んではいけないんです。直也さんに とって良くない事が起こるだけです」
そんなに見せたくないと言うのだろうか、この程度の薄っぺらいものを。
「どうしても嫌なんだ。理恵が隠そうとすればするほど、僕はそれを見なければいけなくなる」
「どうしてですか」
穏やか声は遠く、今や嗚咽が聞こえているような気がする。
それでも、僕は手紙の封を切った。
中には一枚の紙。
「僕が理恵も子供も養っていく。その為に必要なんだよ」
紙切れを広げて僕は書かれている文字を読み上げた。
「かみはしなおや。これは僕の名前。どうして?」
どうして、僕の名前が。
僕の名前だけが書かれているのか。
救いを求める気持ちで理恵を見やると、小刻みに震えながら下を向き何かぶつぶつと呟いている。
「なぁ、どうしてなんだ。理恵、君なら分かるんじゃないのか?」
理恵は何も反応を返そうとしない。
ただ、自分の世界だけにこもっているように見える。
僕がなぁ、と呼びかけ続けるのも拒んで、ぶつぶつと怪しいまでに口を震わせる。
せめて、何かに触れていたくて理恵に近づくとやっとその呟きを聞き取る事ができた。
「もうだめ。もうだめ。もうだめ。もうだめ。もうだめ。もうだめ。もうだめ。もうだめ。」
声は絶望に打ちひしがれたようなのに、顔はまるで能面のようなままだった。