第二十話
僕はこのときだけ理恵を裏切る。
それはもう決めたことだし、変える気はさらさらない。
けど、まだだ。
この手紙を理恵の前に引き出すのは0時以降でなくてはいけない。
あの桜木と会った後の理恵にしか手紙を見せる価値は無い気がする。
理恵が何を思って、この引き出しに手紙をしまったかは今は気にするべきではない。
僕はこれを幸運に思わなくてはいけないのだというのに、どうしてかこの時ばかりは彼女の 穏やかさを責めるような言葉が浮かんだ。
本当に愚かだと思う。
信用はほどほどにしなければいけないとも思う。
しかし、本当に考えねばならなかったのは。
感情的になり自分自身をも貶めたのが可笑しくて声を立てて笑った。
漫画のような笑いを出したくなったが、実際にハハハと言えたかどうかは分からない。
なるほど、僕は自分自身の尊厳さえ踏みにじったと言う事なのか。
まったくふざけている。
本当に久しぶりにベッドの横に転がっていた本を読んでいると、呼び鈴が聞こえる。
リビングにあるインターフォンを取ると、目の前の画面に大きなスーパーの袋が映った。
「ただいま、戻りました。開けていただけますか?」
「あ、うん。わかった」
しかし、なんだというのだろうあの袋の多さと大きさは。
食べすぎが身体に悪い事は良く知っているだろうに、不思議だ。
エレベーターが僕たちが住む階に辿り着く頃合を測って扉を開けて、エレベーターホールへと視線を移す。
重そうな荷物を一杯に抱えてよたよたと歩く理恵が見て取れた。
「持つよ。お腹に悪いだろ」
言っても渡さないのは分かっているのでまず、荷物を奪ってから言う。
「母親らしさが必要な時期らしいから」
「あれ、では直也さんは十分に父親らしくなってしまわれているのですか?」
いや、と否定しようとすると。
「だったら、とても嬉しいです」
それが本当にうれしそうだったので、大人しく口を噤んだ。
「で、その量の多さは何事かな?」
部屋に入るなり聞いてみる。
「普通の量じゃないのは、僕でも分かる」
「お祝いですよ。お腹の子の」
妊娠祝いはこの前したし、ほかにも記念日があったのだろうか。
本当に覚えが無い。
覚えが無いと言う事はそんな日は無いということなのではないか。
それとも単純に僕が度忘れしてしまったのだろうか。
だとすれば、一体どう取り繕えば良いのだろう。
「普通に買い物をしようと思っていたら、お腹の中の子供が蹴ったんです」
「え、何を」
「私のお腹に決まってます。それが何故だかとても嬉しくて。私と直也さんとこの子で家族を作れるんだなと思うと、お祝いをしたくなったんです」
「そう、なのか。赤ちゃんって蹴るものなのか?」
「自分の存在を主張しているって言う人もいますよ」
お腹の子が今日、自分の存在を認知して母親に知らせたと言う事なのだろうか。
なんだか、不吉な気がして余り素直に喜べないのが本当のところだ。
なぁ、と声をかけようとして理恵のほうを向くと、喉からは声が出なかった。
自分のお腹を愛しげに撫でて小声で何かを語りかけるよう理恵が、僕とっては遠い存在のようで、少し寂しく、しかし、見たことが無いほど美しかった。