第十話
恐れか、不安か、それとも嫉妬なのか。ぐちゃぐちゃの気持ちのまま抱いても理恵は変わらずに穏やかで、とても柔らかかった。
それが僕を余計に荒ませた部分もあるけれど、その穏やかさのお蔭で狂わずに済んでいるのもまた事実なのかもしれない。
僕は騙されたくもない。
それに、飼われたくもない。
もし、僕が遊ばれているのだとしたら早々と抜け出たいと思っている。
監禁されているわけでも、弱みを握られているわけでもないのに何故か僕が何も動けないのは 今や妻である理恵を失くしてしまいたくないから。
つまり、理恵がとても大事な存在になっているということなのか。
「なぁ、理恵」
傍らで息を整える彼女を見ると、もう眠りに落ちそうな心地でいる。
「どうしました、直也さん?あ、もう眠いので話の途中で寝たらごめんなさい」
「いや、なんでもないよ」
「そうですか。なら、先におやすみなさい」
理恵はそう言うなり瞼を閉じ、寝息を漏らす。
おやすみ、理恵。
次の日、理恵はいつもの穏やかな表情で部屋にいた。出かけたりもしたが買い物程度で、行動はいたって普通の女性と変わらない。
僕の生活も、不自由な左足以外は普通の男性と変わらない。美しい理恵と共に食事を摂り、抱き合った。
でもやはり22時になると家を出て桜木の元へと行く。
どうして理恵は仕事で桜木の所へ行かなければならないのか。
嫉妬が先立つが、理恵に面倒をみてもらっている僕は、仕事中の理恵は外見だけがそっくりの別人なのだと、考えることにした。
僕が必要としている、穏やかな顔の理恵は22時から0時には存在しない。
感情も何も無く、ただそこにあるだけの表情を形作る事のない目元や口元などを僕は愛したことはない。
この二時間というのは僕の自由時間であり、理恵という緩やかな縛りから自分を解き放つことが出来る時間なのだ。
無表情の女や不気味な男を相手にして、もしくはつけ回して徒労に終わらせるためにある時間ではない。
走るのもいい、筋力トレーニングも悪くない、好きな勉強をするのもいい機会かもしれない。
2時間も余っているのに、したいことはそれなりにあるというのに、僕は何もしなかった。
僕はこの時間に本当に何もしなかった。
つまり、自ら望んでも理恵のように感情をなくしたようにはなれないから、ボーっとしていた。
望んで囚われてしまうのは愚か者のすることだと教えられてきた。
常に行動するのが良い事だと。
でも、今の僕はきっと囚われたいのだろう。
そして、別の部分では何らかの変化を待ってもいた。
あくまで、他力本願で、僕自身は何もしないで。
こう思ってしまうことは諦めなのか、それとも悟りの一つにでも至ったのか。
どちらでも構わない。
0時になるのをひたすらに待つ。僕は玄関に真っ黒なイブニングドレスを着た理恵を目に入れて、その柔らかい身体を抱きしめ、理恵から穏やかな表情で見つめられたかった。