第九話
黒い影は僕の目にはとても不吉なものに見えて、それが動くたびに見つかっているのではないかと心臓がうるさいほどだった。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
おまけに汗が背中に張り付いて気持ちが悪い。
そのくせ寝巻きのまま外に出たので寒気も感じてしまう。
引き返したくなったのか、自分の部屋の方を見上げて嘆息する。
どうして、僕は寒い思いをして気持ち悪いのに外に出ていなければならないのだろう。
じっくりと、見上げてから理恵のいる方を向くと、誰も居なかった。
とても安心した。
部屋に戻り、0時までまんじりともせず明かした。
あの病室で、理恵に言われた22時から0時までは不干渉であること、ということが今更だ がひっかかりはじめた。
どうして、理恵の仕事がこんなに遅くでないといけないのか。
詰まるところ、見られて困るような事なのだろうけど、今の僕にはそれに干渉する気などはない。
理恵に問い詰めたところでおそらく何も教えてはくれない。
それに、問い詰めた事で理恵が僕から離れていってしまうかもしれないという想像が何より怖かった。
扉を開く音、それに靴が奏でる高音が響いた。
朦朧としていた意識を覚まし、ソファから起き上がる。
近づいてくる真っ黒な影を認めて声をかける。
「おかえり、遅かったね」
「ただいま」
理恵は、いつもの理恵で薄闇の中でも穏やかな顔をしているのが分かった。
「どうしたんです。ちゃんと寝ないとしんどくなってしまいますよ」
理恵が壁際のスイッチを入れて、やっと部屋が明るくなる。
「なんだか、眠れなくてね。それに理恵がいないから肌寒いのもあった」
「そんなことを言ってもらえるなんて嬉しいです。でも、珍しいですね。直也さんはいつも気持ちを伝えてくれませんもの」
僕の隣に腰掛けて、身を寄せてくる。
「一応、夫だから。理恵のことは愛しているし、心配もしているんだ」
「ごめんなさい、何も言えなくて」
構わないよ、と言うも、表情には何かが表れていたと思う。
「桜木さん」
もう、寝ようかと言いかけた矢先に理恵が呟いた。
「何でもありません。さ、寝ましょうか」
「そう、だね」
桜木とはあの大きな影の名前だろうか。
あの影が桜木、全く似合わない。
真っ黒で大きな影の癖に桜木とは。
「どうしました?」
顔を向けると理恵が目を丸くして僕を凝視している。
なんでもない、と言って理恵の体を抱き上げて寝室へと移動する。
自分が足を痛めていたことをその時に思い出し、幾度か顔を引きつらせてしまったかもしれない。
だけれど、それよりも抱きしめた感触があまりに柔らかかったのが気になった。