1. on the beach(3)
明日の式典を控え、今夜は町中で前夜祭が行われていた。町中がお祭り騒ぎで、通りには人が溢れ、いろんな出店が出ている。着飾った人々が広場を埋め尽くし、楽団の演奏と楽しげな歌声が聞こえてくる。
アルスとユキは町主催の前夜祭に呼ばれていた。
馬車に二人して乗ったが、アルスはまだ怒っているようで見るからに機嫌が悪い。
「ねえ、アルス、ごめんね」
「ああ」アルスがむっつりと窓から外を見て答えた。
ユキの顔を見てはくれない。
「部屋に戻って来てよ。ね?」
サラナのアドバイスを基に、ユキはニコニコと猫なで声で話し掛けた。
「嫌だ」アルスが即答する。
ユキの作戦は失敗したようだ。
どうやったらアルスが機嫌を直してくれるのだろう?
ユキは馬車の窓に映るアルスの横顔に目をやりながら頭を悩ませた。
庁舎の広間で行われた宴の最中もアルスはユキの手を引き、余所行きの笑顔を浮かべていた。話しかけられればユキにも話しを振るのだが、ユキ個人には何も話し掛けてくれなかった。
そんなアルスの態度にユキは段々と悲しくなってきた。
泣くことはしなかったけれど、帰りの馬車の中では、もうアルスに話し掛ける気力も削がれてしまった。
賑やかな街並みとは裏腹に、馬車の中はシンと静まり返り、沈黙だけが二人を包み込んだ。
「よろしいのですか? ユキ様にお声をかけなくて」
明日の式典の打ち合わせを部屋で行っていると、ググンがアルスに話し掛けて来た。
「いいんだよ。たまには」
アルスが書類に目を通しながら答える。
「今頃部屋でお一人泣いてらっしゃるかもしれませんね」
アルスは答えない。
「……このままご実家に帰られるかもしれませんよ?」
アルスが書類から目を離し顔を上げた。
「実家なんて。……ユキは帰れないだろ」
ユキの故郷は遥かに遠い世界だ。もうそこに戻る事はできない。
そう考えるとアルスは胸が痛くなるのを感じた。
もう戻れない――――そんな覚悟で自分の側にいるのだ。
「きっと簡単に帰れますよ。〈女神の書〉を最後まで完成させれば良いのですから。幸いなことにサマルディア語の〈女神の書〉は3分の1が終わっています。ベルサド語でほとんど訳されているので、ユキ様がやる気になればあっという間に仕上がるでしょうね」
アルスが驚いてググンの顔を見る。
「ユキ様がこのままご実家に帰る決心をされたら、もう二度とお会いする事はできませんねぇ」
ググンが書類に目を通しながら言ってのけた。
「原書は宝物庫に入れて、厳重に保管しているよな?」
ググンが書類から目だけを上げる。
「ユキ様に言われればお出ししますよ。ユキ様のお持ちになった書物ですから」
「絶対出すなよ!」
アルスが声を上げた。
ググンはそれには答えずに、書類の次のページをめくった。
ユキは部屋のバルコニーに出るとぼんやりと外を眺めていた。
潮の香りはするが、暗くてここからでは海は見えない。夜空を見上げるとまだ細い三日月が顔を出している。
アルスはどうしたら許してくれるのだろう?
明日の朝にはまたいつも通り話してくれるだろうか?
ユキはアルスが好きだ。
愛している。
だからこそ日本に帰らず、一人この国に残ると決めたのだ。
決心はゆるがない。
だのに、こんな夜はいっそ世界に一人ぼっちになったような気分だ。
――――ザザン
――――ザザーン
遠くから波の音がしてくるが、それはユキの心を落ち着かせてくれるものでは無かった。
ユキの日常に『波の音』は無かったからだ。
「…………タラタラタタン、タ、タララララン……」
ふとコンビニの自動ドアが開いた時の音楽が頭をよぎり、ユキは声を出した。
あの電子音が今聞こえるなら、涙を流して感動するに違いない。
携帯の着信音。
車の排気ガスの音。
電車の出発するメロディ。
お店のBGM。
テレビから流れるたくさんの人の声……。
洪水の様に音で溢れた……それがユキの日常だった。
波の音しか聞こえないこの場所は、ユキの心を酷く淋しいものにした。
月を眺める。
星の光の方が強いくらいに月光は細くてユキの元には届かない。
「ユキ」
バルコニーへと続く部屋の窓の側にアルスが立っていた。
ユキの側まで歩くとアルスはそっとユキを抱きしめた。
「許してくれ。酷い態度をとった」
「私こそごめんね。いつもアルスに嫌な態度取ってるよね」
「違う。俺がいつもお前を巻き込んでる。この国に残るお前の覚悟がどれほどのものか本当にはわかってないんだよ。だから……嫌にならずに、ずっと側にいて欲しい。ニホンに帰りたいとか考えるなよ」
ユキがアルスをギュッとする。
「そんな事考えるわけないよ。第一もう帰らないと決めて〈女神の書〉を作ったんだよ? 『帰れ』って言われたって帰れないよ」
ユキが笑った。
アルスはユキの言葉には何も答える事ができない。
「一緒にこの部屋にいてくれる?」
ユキがアルスを見上げた。
「いいのか?」
アルスがユキの頬を撫でた。
ユキが背伸びをして、そっとアルスの唇にキスをした。