9. ララバイ(2)
奥の方は少しこんもりとしている。丘と呼ぶほどではないが、今立っている場所より幾分高い。
その盛り上がった場所には三つの柱が建っているように見えた。
あれが石版だ――――
「近づくと驚くよ」
遠藤がユキにぽつりと話した。
一歩一歩と石版に近づく。
石版の足元は少し崩れているようだが、微動だにせず建っているのがわかる。
更にユキが近づく――――
「コンクリート!?」
ユキが目を見開いて叫び、遠藤を振り返った。
コンクリートの壁が三つ並んでいる。
その足元は鉄筋が剥き出しになっていてサビも目立つ。
遠藤が寂しげに微笑んでいる。
何かが心臓を突き上げ、激しく脈打つ。ユキには何がなんだかわからない。
どうしてこんな物が?
誰がこんなものを?
ぐるぐると頭を駆けまわる。
「大丈夫か? ユキ?」
アルスがユキの顔を覗きこむ。
「大丈夫……大丈夫だよ」
そのコンクリートの壁を眺める。便箋に並んでいた文字がそれぞれに彫られている。
「先生」
壁から目を離せず、ユキはそのまま遠藤に話しかけた。
「どうしてコンクリートの壁が?」
「どうしてだろうね? ……僕にもわからないよ」
遠藤がそびえ立つ壁を見上げる。
「こちらとあちらは密に繋がっているのかもしれないね」
遠藤が独り言のように呟く。
「藤城さん。君にこれが読めるのかい?」
ユキはようやく壁から目を離し、遠藤を見た。
「……読めると思います」
ドクドクと音を立てていた心臓が落ち着きを取り戻す。
遠藤が手に持っていた鞄を開き、中からユキの封筒を出すと手に持ち、鞄の方をユキに差し出した。
「……先生?」
ユキが不思議そうな顔をする。
「これを君に」
「でもそれは……先生の大切な鞄です」
「君が持っているんだ。中の物は貴重だよ」
ユキがジッと遠藤の顔を見つめた。
「君に渡すべきかどうかずっと悩んでいた。この世界には無い技術だ。知識の具現だよ。そういった物は常に諸刃の剣だ。人を生かし、人を殺す。
それでもいつか君を……君の大切な人を救う事になるだろう。そう考えると、放っておいたっていつかはこの世界もこれに追いつく。それなら僕は今、君という人間の為にこれを役立てたいと思ったんだ」
ユキの瞳に涙が滲む。
「……偉そうなことを言ってみたが、まあ、単純に君へのプレゼントさ。使い方なんかも書いて入れているから、読んでくれよ」
そう言うと遠藤は笑った。
ユキは涙を指で拭いながら鞄を受け取った。
遠藤の手にはユキの手紙が握られる。
「任せてくれ」
「ありがとうございます」
隣にいるアルスが先生の鞄を引き受けた。
「大丈夫か?」
泣いているユキが心配になりアルスが声を掛ける。
「うん。その鞄、プレゼントだって」
ユキが微笑むとアルスはホッとした顔をした。
そして遠藤に向き合った。
「先生。父を診て下さりありがとうございました。お元気で」
ユキが日本語でそれを遠藤に伝えると、遠藤は「お大事に」 とアルスに微笑んだ。
「……それじゃ……読んでみる」
アルスが頷いた。
ユキは横にいる遠藤にも頷いた。
遠藤も頷き返す。
目を瞑って呼吸を整えた。
後ろで控えていた者達もシンと静まり返る。
ユキに視線が集中する。
ゆっくりと目を開けると、壁に刻まれた古代文字に目をやる。
ユキが口を開いて読み上げる。
ユキの声が洞内に、波紋のように響き渡った。
――――それはどこの言葉なのか誰にも分からない。
サラナや後ろの方にいたキーラやマルタも驚いた顔を見せる。
暁の宮殿ではサマルディア語やロベリア語で聞こえていたはずなのに、〈月の子守歌〉は様相を一変していた。
不思議な言葉が歌の様に響く。
辺りの景色が淡く霞むような気がする。
気づいたもの達が周囲を見渡す。
洞窟内が少し霧がかっているのだ。
そして冷え冷えとしていたはずなのに、熱い空気がまとわりつく。
毛皮を着こんでいた者が堪らずにそれを脱ぎ始める。
湿度も上がりムシムシとしてきた。
体から汗が噴き出してくる。
それに伴い嗅いだ事の無い土臭いような油の臭いがする。
顔をしかめて鼻を押さえる者もいた。
突然アルスの後ろに立っていた町長のクジマが、膝を着きその場に倒れ込んだ。
気づいたアルスが驚いてクジマに駆け寄った。
ユキは熱心に石版を読み上げていてそれには気づかない。
アルスはクジマの体を抱き起すと驚いた。
眠っている――――
側にいたモリも驚いてアルスと顔を見合わせた。
そうしていると、背後の方でも誰かが倒れ、驚いた者が声を上げている。
アルスが振り返ると次々と倒れだす者が増えて行った。
アルスの顔に戦慄が走る。
どういう事だ?
みんな眠っているのか?
こちらを向いたモリも頭に手をやり、焦点の合わない目をアルスに向けるとガクリとその場に崩れ落ちた。
(月からの使者が下り立ち、兵はみんな眠ってしまいました…………)
唐突に――――あの夜恍惚とした表情で話していた、ユキを思いだした。
ユキはおとぎ話だと言っていた。
アルスの頭の中にもねっとりとした物が広がって行く。
膝を着いたままユキを見上げる。
まだユキは歌を歌っている。
アルスは剣を引き抜いた。
――――このまま眠ってしまうわけにはいかない!
その刀身をギュッと素手で握り締めた。
血が流れ落ちる。痛みで一気に頭が冴えわたった。
ユキを見上るとその視線の先にはあの巨大な石版は無かった。
ユキの瞳が大きく開かれている。
「東京タワーだわ!!」
ユキの目の前には、ビルの合間にそびえ立つ見慣れた赤い電波塔があった。
夏の雨上がりなのか湿気を含んだ空気は重くムッとしている。
濡れたアスファルトの匂いがして、ユキの胸を懐かしい物が駆け上がる。
隣を見ると遠藤もその景色に、目を大きくして見ている。フラフラとタワーに吸い込まれるように遠藤の足が出る。
「先生!」
ユキが遠藤に叫んだ。
ハッとして遠藤はユキを振り返ると、手紙を持っていない方の手をユキに伸ばした。
「藤城さん! 帰ろう!!」
ユキの心が遠藤の言葉に吸い込まれる。
懐かしい古里の景色。
懐かしい匂い。
これがユキの世界だ。
ありのままのユキの世界なのだ。




