8. 囚われの海(1)
夕食を済ませると、辺りはとっぷりと暗くなっていた。
そろそろレハルドの港に到着する頃だ。
部屋で下船の準備をしていると、ユキのいる部屋がノックされた。
トーガが顔を覗かせる。
「姫さん、ちょっといい? 先生が甲板にいるんだけどさ、なんだか様子が変なんだ。俺たちじゃ言葉通じないし」
「わかった。すぐ行くね」
ユキが絹の羽織だけで外へ出ようとすると、サラナが白い毛皮のコートを出して来た。
「外は凍えるように寒いですわ。これを着ないと風邪をひきます」
「大丈夫よ。全然寒くないもの」
ユキはもたつくのが嫌でそれを断った。
「それならせめてこちらを着て行って下さい」
ユキの気に入ったファーベストを渡された。
ユキはこれを着る必要も無いと思ったけれど、仕方なくそれを羽織ってトーガの後ろを付いて甲板へ出た。
風が強く吹き付けている。嵐のはずの海域を出た途端、レハルドの近海の方が風が強いようだ。
遠藤が船の前方で、港に小さく灯る光を見つめている。ユキには特別様子がおかしいようには見えなかった。
「先生。もうすぐ着きますね」
ユキが声を掛けたが遠藤は何の反応も見せない。
ひたすら陸地を眺めている。
もう一度顔を覗きこみ声をかけた。
「先生?」
遠藤は瞬き一つせず、魂が抜けてしまったかのように放心している。ユキの声は何も届いていないようだ。
確かに様子がおかしい。
ユキは遠藤の腕を引いてもう一度声を掛けた。
「先生。藤城です。どうされましたか? 先生?」
ユキが声を掛け続けていると遠藤の体がグラリと揺れた。驚いて遠藤の腕を両手で強く握った。
「先生!」
「危ない!! 姫さん!! 手を離せ!!!」
遠藤の体が手すりを乗り越え暗い海へと投げ出される。
トーガの伸ばした手が空を切り、遠藤の体に引っ張られるようにして、ユキの体も一緒に海へと落ちて行った。
「落ちたぞー!!」
周囲にいた兵士が叫ぶ。
トーガが後を追って海へ飛び込んだ。
「ユキ!!」
船の後方にいたレオも騒ぎに気づき海へと飛び込んだ。
「錨を下せ! 船を止めろ!」
甲板での騒ぎを聞きつけアルスが船長室から顔を出した。
「……何事だ?」
「ユキ様が船から……!!」
それを聞いたアルスの全身が総毛立つ。
上階にある船長室から階段を飛び下りると、一目散に甲板を走った。
そのまま海に飛び込もうと手摺を掴んだところで、後方から強く体を引っ張られた。
必死に後を追ったモリが、寸前でアルスを引き止めたのだ。
「離せ!! モリ!!」
「離しません!! 皇子はどうかお止まり下さい!」
アルスが振り払おうとするが、モリが腕を取り、がっちりとアルスを押さえつける。
「命令だ!!! 離せ!! ユキを助ける!!」
「出来ません!! 私が行きますので、皇子はこちらに!」
「やめろ!! 俺を止めるな!! ……モリ!!!」
アルスが腕をよじるが、それでもモリは手を緩める事は無かった。
アルスがモリを睨みつける。
「……わかったから手を離せ! 下が見えないだろ!」
モリがようやく手を緩めた。
アルスが手摺りに飛びつき下を覗き込むと甲板から海面が見えた。
既に篝火が下されている。
暗い海に三人の人影が見えた。
ユキとトーガと医者の姿だ。
気を失っている医者を、トーガとユキが脇から抱えて浮いていた。
「ユキ!! 大丈夫か!?」
アルスが大声を出すと、ユキも大声で返した。
「大丈夫! 先生が気を失ってるの!」
「そこにいろよ! 今小舟を下しているから!」
アルスが幾分安堵しながら叫んだ。
遠藤の片側を支えて波間に浮いているユキが、船上を見上げる。
まだ甲板では皆が騒いでいるように聞こえた。
船の後ろの方の海面を指さしている。
「トーガ。 何だろう? みんなまだ騒いでるみたい」
ユキの反対側で遠藤を支えていたトーガも甲板を見上げ、船の後方に目を凝らした。
篝火の照らし出す先に、波に揺られるレオの姿が見えた。
「くそっ! レオだ!」
ユキもそちらをジッと見つめたが、ユキからは良く見えなかった。
「レオって泳げるのかしら?」
トーガは答えない。
ユキがトーガの顔を見つめる。
北国のレハルドに生まれたレオが泳げる可能性は――――?
「トーガ、私が行ってみる。先生をお願い!」
トーガが慌ててユキの顔を見る。
「ダメだ! 姫さんはここにいろ! レオならきっと大丈夫だ!」
「大丈夫なら二人で戻ってくるから」
「それなら俺が行く!」
「ダメよ! 大柄の先生を私一人で支えるのは無理!」
「止めろ!」
「離すわよ!」
トーガの言葉を聞かず、ユキはスルリと遠藤の腕を離し、船の後方へと泳ぎだした。
その光景を上から見ていたアルスが叫ぶ。
「ユキ!! 何をやってる!? 戻れ!!!」
ユキの耳に、それは届かない。




