7. 北上(3)
遠藤はポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。空になったパッケージを握りつぶすも、ハッとユキの顔を振り返った。
「すまない。吸っていてもいいかい?」
ユキは笑顔で頷く。
日本にいる頃はヘビースモーカーの父親の浩二に、母と姉とユキの女3人で注意ばかりしていた。
今ではこんなに懐かしい匂いに思える。ユキは深呼吸をしたい衝動にさえかられた。
「実は最後の1本なんだよ。もう日本へ帰れるし吸ってしまうことにしたんだ」
遠藤がそう言うと水平線に目をやる。
「でも先生。本当に帰れるかどうかはわからないんです。もしダメだったら……」
遠藤は笑顔を浮かべて横にいるユキを見た。
「大丈夫だよ。きっと帰れる。僕はそんな気がするんだ」
遠藤がフーっと吹いた煙が海風にさらわれていく。
「君は……あの皇子様は君の恋人かい?」
ユキが少し頬を赤くする。
「私……彼と結婚するんです」
驚いた遠藤の声が強く響く。
「それじゃ……君は帰らないのか!?」
ユキがぎこちなく頷く。
遠藤はそのまま次の言葉を見失った。自分を落ち着かせるようにもう一度口に煙草を含み、深く息を吐いた。
「そんな……君の親御さんは……?」
もちろんユキの両親がそんな事を知るわけがない。
遠藤は煙草を人差し指と中指の間に挟んだまま、親指を眉間に当てた。
下を向き黙り込む。
「……先生。私、わかってるんです。自分は大ばか者で親不孝者だって。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも友達も、みんな凄く心配してるって。わかっているんです」
ユキがすがりつくような瞳を向ける。
「それでも……この世界に居たいんです。彼の側にいたいんです。彼のいない世界に戻る事の方が私は怖いんです」
ユキが腕を組み、両肘をギュッと握った。自分がこのまま震えだすんじゃないかと感じたからだ。
遠藤がユキから目を逸らし、また水平線を眺めた。
「…………僕にもね、高2の娘がいるんだよ。バスケ部なんだけどね。今年の国体に出る事が決まったんだ。娘はレギュラーではないけれど、ベンチ入りするんだよ。それで妻と二人応援に行こうって話をしていたんだ。旅行も兼ねてね」
もうその秋は一年以上前に過ぎ去ってしまっていた。
「もしも……もしも娘が突然姿を消してしまったら? 僕はそんな事考えられないよ。人生の中でそんな失くしものがあるかい? 僕なら必死に探し回るよ。……自分が死ぬまで探し続けるよ」
ユキの目から大粒の涙が零れ落ちた。
遠藤の言葉は父親の浩二の言葉のような気がした。
「それでも……残るんだね?」
遠藤は隣に佇んでいるユキに目をやった。
ユキは口を真一文字に閉じ、コクリと頷く。
遠藤の手元から灰色の細い煙が昇った。
「先生!!」
驚いた遠藤が反射的に手を開いた。慌てて自分のズボンに指先を擦り当てる。
遠藤が手に持っていた煙草は、いつの間にか短く燃え尽きていたのだ。
「しまった!! 最後の一本が!」
遠藤が慌てて手摺りにしがみついた。
粟立つ波間を覗くが、煙草は既に海の藻屑と消え去っていた。
「先生、火傷されたのでは!?」
ユキは遠藤の掌を覗き込む。
真黒く煤けた指先は少し汚れただけで、皮膚を赤くする事すらなかった。
「……君を泣かせてしまって、罰が当たったかな?」
遠藤が笑ってユキを見た。
ユキがふるふると頭を横に振った。
遠藤がもう片方に持っていたシルバーのライターで、シュポンと火を点けた。揺れるオレンジ色の炎を見つめるとそのまま蓋を閉じた。
ユキの前にそれを差し出す。
「これは君にあげるよ。僕は戻ればいくつだって持っているんだ。火がすぐつくのはこの世界では便利な事だろ?」
「でも……」
ユキが断ろうとすると、遠藤は
「せめてもの罪滅ぼしだよ」と笑ってユキにそれを握らせた。




