4. 私はその時(2)
夜、ユキはバルコニーに出ると、月を見上げた。まだ欠けている月がほんのりと辺りを照らす。窓からの明かりも頼りにそっと名刺を眺めた。
『遠藤泰昌』
この名刺は彼の物に間違いない。
同じものが宮殿には他に2通届いている。その全てにこの名刺が入っていた。
それは自分の手元にある他人の名刺では無いということ。自分自身の名刺を何枚も所有しているという事だ。
彼はどんなに不安な夜を過ごしているだろうか?
言葉まで通じないなんて……
ユキは早く彼の役に立ちたいと思った。
そして、少しだけ日本の話ができたらいいなと思ったのだ。
弱弱しく光る月に家族の顔を思い浮かべる。
もう帰らない故郷
帰らないと決めた故郷
本当に日本への扉は開くのだろうか?
私はその時――――――
「……ユキ……ユキ」
ユキの耳に小さな声が届く。
ユキはキョロキョロとバルコニーを見渡すが誰の姿も無い。
近くで聞こえた気がしたけれど…………
「……違う。下、下」
バルコニーの手摺から乗りだし、下を覗くと壁の凹みにレオが掴まっているのが見えた。
ユキがギョッとする。
「ちょっと! レオ!? あなた何やってんのよ!?」
「静かにしろよ! 人が来るだろ」
声を消してレオが叫ぶ。
「いいから手貸して。落ちるかも」
ユキが慌てて手摺から手を伸ばす。レオがその手を掴むとひょいひょいと登り、手摺を飛び越えてきた。
「とうちゃーく」
レオが笑顔で着地する。
ユキはまだ驚きの表情でレオを見ていた。
「危ないでしょ! 何考えてるのよ!? 落ちたら怪我するわよ!」
「大丈夫。俺そんな間抜けじゃねーし」
ユキが眉間に皺を寄せレオを見る。
以前ロープまで準備していて落ちた自分が大間抜けのような気がした。
「ところでここまで何しに来たの?」
「ユキに話しに来たんだよ」
「何を? 話したいならドアから入って来なさいよ」
「この宮殿のあちこちに警備の兵士がいるんだぜ。さっきも追い返されたんだよ」
ユキはそれを聞いて笑った。
「そんでここの下から手振ってんのに、見やしないしさ。何やってたんだよ?」
「ああ、いろいろ考え事してたから気付かなかった」
レオがジッとユキの顔を見る。
「『月の女神』って月から来たってこと? 月に家があんの?」
ユキは目をぱちくりさせる。
「違うわよ。ここからは遠い普通の国に普通の家があるのよ」
「じゃあ何で『月の女神』って言うんだよ?」
「知らないわよ。この世界の人がそう呼んでるんじゃない。別に私が『月の女神でーす。よろしくお願いしまーす』って自己紹介したわけじゃないわよ」
レオは声を出して笑った。
でも慌てて口を塞ぐ。口を押えたまま窓を振り返り、部屋の様子を伺った。
ヘレムやサラナには気づかれなかったようだ。
「笑かすなよな!」
レオがユキを睨みつける。
慌てふためくレオを見てユキも笑った。
「……で? 話は終わった? 暗いから気を付けて帰るのよ」
ユキが「じゃあね」と踵を返して部屋の中に戻ろうとする。
レオが慌ててそれを止めた。
「レハルドに来るんだよな? 俺が道案内するからさ。一緒に行こう」
ユキは「うーん」と顔をしかめる。
「もちろん行くけど。一応アルスに相談してみないとね」
レオが顔をしかめる。
「なんであいつの許可がいるんだよ。先生助けてやんねーのかよ?」
「助けたいに決まってるでしょ! でも、こっちだっていろいろあるのよ。……いろいろと」
レオが「はあ」とこれ見よがしに息を吐いた。
「ホント窮屈だな。あんな奴止めてレハルドに来いよ。皆ユキの事歓迎するしさ。この国にいるよか絶対自由だぞ。行きたいところ何処だってすぐに行けるよ。俺がユキを連れてってやるからさ」
「それはどうもありがとう。……でも遠慮しとく」
ユキが微笑む。
「何でだよ!? 『女神』ってのは世界を照らすってやつだろ? サマルディア限定とかじゃないじゃん。ユキが思う通りにしていいはずだろ!」
レオの言葉は次第にヒートアップする。
「だって私はここに居たいのよ」
「何で!?」
「何でって……アルスの側に居たいのよ」
レオが目を丸くする。
「……何か誤解してない? 私がアルスの側にいたいのよ。……まあ、確かにケンカはしてるけど、それで彼を嫌いになったとかじゃないし。……結婚するって聞いているんでしょ?」
「……嫌がってたじゃん……」
ユキは額を押さえる。
「まあ……あの時はね。イライラしてたし」
「でも! ……ユキは女神だし、そんな……そんな狭っ苦しいとこにいなくても……」
「うーん、それもね……。私の女神としての仕事は、本来終わっているのよ。もうとっくに自分の世界に帰っているはずなの。それでもここに残ったのはアルスといたいからよ。そうじゃなきゃ今頃は日本にいるし、レオにだって会っていないもの」
レオが下を向いて黙り込む。
そして何かを決心したように顔を上げた。
「あんな奴のどこがいいんだよ? 俺の方が絶対いい男になる。あと3年もすれば18だし、すぐに大人になるし」
まだ15なんだ……
ユキが懐かしい目をして、レオの真っ直ぐな瞳を見つめた。
このくらいの年齢って早く大人になりたいとか思うんだよね。
「…………なんかその目がムカつくな」
レオがユキを睨みつけ、両手でユキの肩を掴んだ。
「ちょっ…何する気よ!?」
「黙れよ!」
レオがユキに顔を寄せる。
「ヘレムー! ちょっといい!?」
ユキが大きな声でヘレムを呼んだ。
「はい! ただいまぁ」と部屋の中から声が返ってきた。
レオが目を見開く。
「な……なんで人呼んでんだよ!?」
「それはこっちのセリフよ少年! 早くここから帰らないと、こんな所にいるの見つかったら速攻宮殿から追い出されるからね」
レオが渋々とユキから手を離し、手摺によじ上る。
「覚えとけよ」
「はいはい。気を付けてね」
そう言うとレオはまた器用に下へ下へとおりて行った。
身の軽い子ね。
ユキはそれを上から眺めた。




