台拭きから既に難しいです
二人が下に降りていくと、まもなく橋田家夫妻がさほど時を置かずに帰宅し、一家は晩ご飯にありついた。
元々橋田家は夫婦に二人の兄弟の四人暮らしが基本であるが、家に通ってくる翠のための部屋や椅子などの家具もいつの間にかそろえられているため、翠が食卓についても何の問題もない。
翠のコロッケは好評だ。特に橋田家父である慶福は、母が作ったよりも美味しいと正直な感想を述べ、机の下で足を蹴られていた。
寿子夫人はレシピ通りに作ってくれればいいものを、たまに謎の冒険をするからそうコメントされるのだと透も密かに父に同意する。
慶福氏はさらにつけあわせのキュウリとトマトをさりげなく避けようとして、寿子夫人に結局口の中に突っ込まれるに至っていた。この妻にしてこの夫あり、である。
橋田家の長、橋田慶福という男は、いかにも誰とでも話せますどこでも生きていけますと言うバイタリティを持つ寿子夫人と違い、ぬぼっとして死んだ魚のような目をしている。繁忙期で徹夜が重なっているとさらに腐った魚のような目になってくる。
ではコミュニケーションが苦手かというとそんなことはない。慶福氏は聞き上手である。いや、正確に言うと、適当に相づちを打って聞いている振りをしながら流し、相手はそれに気がつかず気持ちよく喋り続ける、そういうのがとてもうまい男なのだった。
また、慶福氏は自分の興味のない部分については風に吹かれるまま飛ばされるままだが、自分がこだわっている部分については頑固で誰が何を言おうと一歩も譲らない。
クリエイター職はまさに彼の天職と言えよう。時々こだわりが過ぎると、職場の部下達に苦労をかけるらしいが。
まとめると、いつも死にそうな見た目をしている割に案外一番倒れない男、というのが慶福氏に対する他人のおおむね一致した評価である。
透の見た目はどちらかというと童顔な母親の要素を多く継いでおり、一方でぼんやりおっとりしている性格は、どう考えてもこの父親似だ。慶福氏からこだわりと闘争心を抜いて穏やかにしすぎたのが透、と親子を比べる人は言っていたりする。
そんな橋田家の父は、予想通りというかなんというか、息子のデートについてはさほど興味を示さなかった。話が現実味を帯びていないせいもあって(主に静華の存在のせいだ)、本当に透がデートに連れて行ってもらえるのか半信半疑な部分があるかもしれない。
「まあ、頑張りなさい。進捗あったら報告よろしく」
と、千切りキャベツを咀嚼しながら、実に素っ気ないものである。
ちなみにこのキャベツも翠が切った方が美味しいとコメントしたため、机の下で以下略。
「デートの服を買いに行くの? ていうかどこでランチするの? なんならお母さん、おめかししてついていっちゃおうかしら?」
とオバサン根性丸出しでがっつり首を突っ込もうとしている寿子夫人と足して二で割ったらちょうどよくなるのではないかと考えられる。
なお、その寿子夫人だが、直後に翠がすさまじく冷ややかな声で、
「伯母さん、その日はパートでしょ。それに、デートぐらい一人でやらせないと駄目だよ。もう透お兄ちゃんだってアラサーなんだからね」
と言ったところ、あらあらまあまあそうかもね、とひとまずは引いていった。
母同伴で静華と会うなんで冗談ではないので透はほっとしたが、翠の物言いには微妙に言い返したいような気もする。
というか、二十五歳をアラウンドサーティーに分類した上にいい年してる、とルビを振るのはいかがなものか。
約十歳の年齢差と若者とは残酷である。
そんなささやかな波乱はあったものの、食卓を囲んだ和やかな団らんはつつがなく終わる。
ご飯が終わると最初に動くのが慶福氏だ。食器類を流しに運び、ゴミの分別をきっちりしてささっとお湯で軽く汚れを落とし、三角コーナーの生ゴミを処理する。
それが終わると、自分の役目はここまでとばかりに自室へ引き上げていく。
流しの食器を寿子夫人が引き続き洗おうとする一方、翠は台拭きを出してきたが、布巾を絞ったところでいつも通りぼーっとしている透に何気なく顔を向けてきた。
「そうだ。透お兄ちゃん、台拭きしよっか?」
「え? あ、う、うん」
透は慌てて翠から台拭きを受け取った。
父母や従妹がてきぱき動いてやることがなくなったからぼーっとしているだけで、やれと言われれば文句の一つも言わずに従うのである。
透の台拭きを見守っていた翠だが、まもなくまた口を出した。
「兄ちゃん。まずはね、台の上のゴミを集めるんだよ」
「え?」
「ちょっと貸して」
透から台拭きを受け取ると、翠はまず机の角の一つに手ぼうきをするような感じで、布巾を上手に使い、食卓上に散らかっている食べかすなどのゴミを集める。
「それで、こうやって集めて、捨てる」
説明しながら、彼女は集めたゴミを机の角から掌の上に落とし、手早くゴミ箱に持っていく。
「で、今のでちょっと布巾も汚れてるから、今度は別の面で拭く。あと、さっきみたいに縦に動かすより、横に動かす方が力が入るから机が綺麗になるよ。やってみて」
「――あ、うん」
見とれていた透だが、翠にパスされると慌ててぎこちなく挑戦する。
確かに翠の言うとおりにする方が、いつも自分で適当にやっているより木製の机が綺麗に輝いているような気がした。
「で、終わったらちゃんと洗って、絞って、元のところに、戻す。一応手も洗っておこうね」
机を拭き終わって思わず達成感に満ちた顔を向けると、ドライな従妹は抑揚の薄い口調で言った。
「あら、透がやったの? 綺麗になっているじゃない」
その通りにして帰ってくると、ちょうど台所を終えたらしい橋田家の母がダイニングに戻ってきて声を上げた。
「これが何も考えなくても自然にできるようになるところがゴールだから」
小さな達成感に満ちている透の耳に、翠のぼそっとしたつぶやきが届かなかったのは、幸だったのか不幸だったのか。
片付けも終わり、母に続いて自分も部屋に引き上げようかと透がふとスマートフォンを見たところ、メッセージに返信があった。
ドレスコードについての質問に、一分以内に簡潔な回答が返ってきている。
「スマートエレガント」
……簡潔すぎて涙が出てきそうな返信内容だ。
一応、どうやら会場らしい、レストランのURLのリンクも添えられていた。確認してみたところ、フレンチのようだ。
他力本願な透は早速司令塔に報告し、助力を請うてみる。
「この、スマートエレガントって何、あっちゃん」
「カジュアルとフォーマルの間のドレスコード。まあ、ラフすぎたらお断りするけどガチガチに過ぎると浮くよって感じ? ……のはずだけど、この店ならもうちょっと軽くてよさそうな気がするな。もうちょい探り入れてみて」
「さ、探るったって一体どうやって――あっ」
「『早い! 返信ありがとうございます!(^^) ええと、ダークスーツの方がいいですか?(><)』っと。はい、送信」
「あっちゃん……!?」
「善は急げって言うじゃない」
「急いては事をし損じるとも言うよね!?」
「大丈夫大丈夫、たぶん」
透がもたついていると、翠はスマホをひったくり、しゅばばばばっと指を動かす。手際の良い翠は素早く文を作ると、透に確認や了承を取るまもなく送ってしまったようだった。本人に選択の自由を戻したらまだグダグダし始めると考えたのかもしれない。
返してもらった画面をのぞきこんで、透はさらに目を剥いた。
「ってちょっと、絵文字なんかつけて大丈夫なの!?」
「さあ?」
「あっちゃん、あのね――え? あれ、もう返信来たっ」
「静華さん、打つの速いね。なんて?」
翠に催促され、透は返信画面の文章を読み上げる。
「ええと、
『店はスマートエレガントって言ってるけど、実質はカジュアルと大差ない。
タンクトップ、短パン、ビーチサンダルみたいな、露出度高い奴はNG。
男性なら襟のあるシャツやポロシャツに、長ズボンってところかな?
あ、ズボンはデニムじゃない奴で頼むよ。
もしかして気合い入れておしゃれしてくるの?
じゃあ、私もちょっと頑張っちゃおうかな(・ω<)
当日楽しみにしてるね(^^)』
だって。……静華さんが顔文字つけてるし文が長くなってる!」
「良かったね」
「でも楽しみにされてるのはこっちのハードル上がって困る!」
「いいんじゃないかな」
「あっちゃん、さっきから適当な事言ってない!?」
「いや全然」
静華はどうやら一文ずつこまめに改行して送ってきているらしい。というかたぶん、アプリの設定をエンターを押したら送信、という感じにしているのだろう。
くるくる表情を変える透と対照的に、翠の冷静な顔は崩れない。
「あっちゃん……それでこの、デニムって何?」
「大体青色で染色する、厚地で丈夫なあや織りの綿布。ジーパン、ジーンズの生地の事だよ、つまりこの文は、ジーパンはラフすぎるから穿いてこないでねって意味」
「ああ、そっか。ジーパンは駄目なんだね」
透は幼稚園から小学校までは服を両親の趣味に依存し、中学から高校生まで私服生活もほぼ制服やジャージで乗り切り、大学のファッションは弟や友人や店員に丸投げしてしのぎきり、社会人になったらまたブラックスーツで落ち着いた。
おかげでなんとなく、どのぐらいが完全アウトでどのぐらいならセーフかという見た目の感覚ならそこそこ身についている。しかし、用語となるとさっぱりなのである。かろうじてジーパンとジャージはおしゃれじゃない、ということぐらいは知っているようだが。
「ジーパンやジャージ、動きやすくていいのになあ……」
のほほんとつぶやく透に、翠は深いため息を吐いている。
こののんたる兄貴をびしっとするにはかなりの長期戦を覚悟するべきなのだろうが、果たして静華氏はどれほど懐の深い大人なのだろうか。
あ、でも酒場で泥酔してたところに一目惚れしてたらしいし、じゃあ別にいいのかな。
翠の心配も勝手な安堵もつゆ知らず、透はメッセージの顔文字をなぞっては上がりそうになる口角をこらえてひくひく顔を引きつらせていた。