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ここから本気の花嫁修業! つー!

 俺は、誰かを蹴落としてでも這い上がりたいとは考えない……皆で一緒に、いい方に向かっていきたいと考える人間なんです。負けてもいい。最終的に、笑っていられるなら。


 ……甘っちょろい、ですかね。でも、こういう考え、なんです。



 思えば、退職した前の会社は、必ずしもそうではなかったような気がします。


 他人を蹴落とせ……とは、けして言っていませんでした。チームワークの重要性を、強調されたこともあります。


 けれど、数字にこだわり、勝ちにこだわり、成果にこだわり、互いに見栄を張り合って――俺がいた営業部は特に、結局はそんな風になってしまっていたように思います。

 大きい所だったからこそ、負けることができなかった。たくさん社員がいたからこそ、必要とされている人間と、余剰力に甘えてくるまれているだけの人間の差は露骨だった。


 俺はそんな組織の歯車の一つではいられないと思って、ここままでは駄目だと思って、辞めました。


 けれど、その後どうすればいいかは――わかっていなかった。たまたま拾ってくれた百鬼さんに乗っかって、楽をしようとした。そういうことをやめようと思っての、離職だったはずなのに、また自分で考えることを、選ぶことを放棄しようとしていた。



 何をすればいいのかわからなかったとき、いろんな人からアドバイスをもらったり、本を読みあさったりしました。


 俺に何が一番足りないんだろう。最初はわかりませんでした。



 ――今は。わかるような、気がします。いいえ、わかっています。



 それは、目標です。明確な目標。ゴール。なりたい将来の自分。人間の行動の芯になるのは、思い描く未来なんです。ようやく、そのことに気がつきました。


 幸い、職をお休みして、ちょうどいい、時間もできたことですし。改めて、色々と考えてみました。自分がどんな風に生きていきたいのか。どんな風に生きていたくはないのか。



 俺、ずっと、人を幸せにする、笑顔にする人間になりたかったんです。


 ちっちゃい頃は、それこそヒーローとか……人のお世話をするのも、結構好きだったので、そういう選択肢もありだなって。


 ――だけど。

 小さい頃と同じ事を、夢物語を語るのは、子どもっぽくて。正義は力のある、自信のある人だけが使っていいものでした。

 それに、自分より誰かの世話をすることが好きだなんて――上手でもないくせに――みっともなく、女々しいって、笑われました。



 ……俺、ずっと、誰かを幸せにする、すごい人間になりたかったんです。

 でも、同じぐらい、絶対になれっこないって思ってたんです。

 なりたいって思う自分を馬鹿にして笑ってたんです。


 ――そうしないと、みじめだから。

 どう頑張っても、どんくさいのは直らなかった。かっこよくなんてなれなかった。



 勅使河原さん。俺、誰かを幸せにする人間になりたいんです。

 それは――きっと、すごいことに違いない。

 でも、それをする人間が、すごすぎなくてもいい。

 俺にもできることが、ある。



 ……ちょっと、話が飛んじゃった部分もあるかもしれないですけど、つまり俺が言いたいことは、ですね。


 人を幸せにしたい。

 関わってくれた、すごいと思う人の役に立ちたい。


 それで、今一番、そう思っているのが――百鬼さんです。


 その、もちろん、実はその、一番身近に関わるすごい人って、家族なんですけど……ずっといつまでも家の子どもでもいられないですし。



 百鬼さんは。

 ――百鬼さんは。


 あの、なんで、とか、未だに理由の部分は、腑に落ちてない所もあるんですけど、でも。


 ……かっこよくない橋田透を、選んでくれた……初めての、人なんです。


 精一杯見栄張って、虚勢で「皆」の望む透を演じて、なんとかやってこうとしていた、俺じゃなくて、駄目駄目の、もう、本当に何にも取り繕ってない、俺を、俺のことを、選んでくれて――今でも待ってくれている――それが本当に、嬉しいんです。



 勅使河原さん。俺は、至らないところも多々ある――ありすぎてそこしか目につかないかもしれません。


 だけど、百鬼静華さんが選んでくれた、そのことに、自信を持ちたいと思う。


 俺の取り柄は、真面目な事と、誠心誠意課題に取り組むこと。


 誰かを幸せにする――百鬼さんを幸せにする男になりたいんです。



 そのために、まず必要な物として、二ヶ月間、生活の基礎を翠や母にたたき込んでもらいました。



 掃除は、無難に一通りの掃除機の使い方と、困ったら重曹かアルコールを持ち出せばいいこと。

 衣類の洗濯は、ネットと洗剤、漂白剤の使い方と、しわにならない、臭いのつかない干し方。

 料理は――炊飯器は炊けるようになりましたし、電子レンジの使い方を習得しました。包丁の扱いはまだぎこちないですが、皿は洗えます。

 買い物と、お財布の管理は、まだ始めたばかりなので、多々拙い点、ありますが。


 ……その。とても、あなたに技術で敵うとは思えないけれど、まずは少なくとも最低限、自分で自分の世話ができるようになった――と、思います。


 百鬼さんにも、進捗状況は、ちょこちょこと、報告して。その……ええと、彼女は、喜んでいるみたいです、はい。この間は、お庭のプランターのお掃除を、ちょっとお手伝いさせていただきましたし……。



 こほん! あの、ともかく。

 百鬼さんとお話しを進めてみても、今のところ特に俺に何か特別なスキルを求めていないようですが、でもやっぱり一番始めに家事をしてもらえたら、家のことをなんとかしてもらえたら助かる、と言っていたし、実際少しずつあの家に手を入れてみたら、喜ばれているみたいなので、ひとまず目的に向かってこの方向で進んでいるのですが――。



 ……ええと、その。



 つまり、こんな感じ、なんですが……。



 ***



 歴戦の老メイド勅使河原てしがわら百合恵ゆりえの鋭い眼光に包まれながら、透は冷や汗を滝のように流しつつ話している。


 油断すると萎縮しそうになるので、絶対に姿勢を丸めないようにしていると早くも腰やら背中やらがガチガチだ。


 ふむふむ、と珈琲を手に優雅に頷いていた老メイドが、おもむろにカップをテーブルに戻す。


「つまり、橋田透様の目標は誰かの役に立ちたいこと。そして今現在の目標は、お嬢様の役に立ちたいこと。そのために今、家事の習得に勤しんでいて、お嬢様とのやりとりは順調、反応は好調。以上、進捗の報告をもって、試験に臨むと……そういうことでございますね?」


 そういうことでございます、と答える透は喉ががらがらで裏返りそうな声を出した。


 慌てて水を飲んでどんどんと身体を叩いていると、老メイドのふっと息を吐く音がテーブル上に落ちる。


「足りません。全然足りませんわ」


 冷ややかな老メイドの言葉に、ただでさえ緊張の面持ちだった透の顔がさっと青ざめる。


 彼女はぐいっと一気に残りの珈琲を飲み干してしまうと、ふんすとまた大きく鼻息を漏らして透をにらんだ。


「ようやくスタートラインと言うところですが、正直に申し上げまして、あと一月お待ちしてもこのラインまでいらっしゃるとはあたくしには思えませんで、てっきり途中で辞退なされるものとばかり考えておりました。見くびってごめんあそばせ。けれど、素養があるとみなしたからにはあたくしも今後一切手加減はしなくてよ」


 うつむきかけていた透だが、勅使河原の言葉を聞いているうちに絶望の表情が困惑に、そしてぽかんと間抜けな物に変わる。


「――え? それって、あの」

「合格点にはまだまだ遠いですが、赤点ではなかったということにしてあげましょう。さ、何をぼさっとなさっているのです。早くご準備なさい! そのなっていないフォーム、片端から直して差し上げましょう!」


 ――ひとまず最大のピンチを乗り越えた透の歓喜の声が、家事ガチ勢勅旨河原のしごきによって叫喚に変わるのは、そう遅くはなかった。

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