ここから本気の花嫁修業! わん!
――季節は流れて五月も終わり。春の肌寒さはすっかり消え去って、夏が顔を見せ始めている。
橋田透の二度目の試験の日がやってきていた。
その日、朝早くから、彼は都内のファミリーレストランに緊張の面持ちでスタンバイしている。
自分の近所や普段の活動範囲ではない分アウェイ感が漂うが、大手チェーン店の内装やコンセプトなんてどれも似通っているもので、案外と緊張しない。
ちらりと顔を上げると、店長だろうかアルバイトだろうか、ウェイトレスがテーブルを片付けて厨房に戻っていく。
数ヶ月前までは、自分もあんな風に、大きな組織の歯車の一つだったのだ。妙な感慨が沸いてくるが、今は数ヶ月前と違って、ぴりりとした鋭い痛みは浮かばない。
ただ、ああ、三年間、俺はずっとあんな顔をしていたのだろうか――と、ほろ苦い思い出の哀愁が漂うのみである。
そわそわ落ち着かない心をなだめるように頭に手をやった。
髪は見苦しくない程度に寝癖を押さえ、ふわふわ立ちそうになる部分を幾分か行儀よく見えるようにセッティングしてある。
そういえば就活中など、生来明るい髪が印象に響くと染めていたのだったっけ。いや、就活中だけではない。周囲も垢抜けて色気づき始める高校はともかく、悪目立ちする中学でも、思い返せば彼は髪を染めていた時があった。
(最初は、そうか。見た目が浮いて見えるから、その分しっかりしないとって思ったんだ。俺は長男だし、ちゃんとした家の子なんだし)
――けれど、今日は、染めるのはなしだ。染めた自分を見てほしいわけではないし、アピールしたいわけでもない。
髪に次いでいじるのは首、襟元だ。
ラフな格好もいいけれど、やはりアイロンのきいたしわのないシャツの襟をぴんと立て、ぴしりとネクタイで締めると気持ちが違う。
スーツの色はネイビー。少々暑くなってきた季節だが、クーラーの効いた室内にいれば問題ない。
やはり真面目に営業をするならジャケットありが無難だし、お洒落に未ださほど自信のない彼は結局制服貴重なビジネススタイルが一番いろんな意味で気楽に身につけられるのである。
念入りに靴下だって新品だし、大事に使っている革靴もきちんと手入れしてきた。
というか、今朝起きてからここに来るまで、手荷物の準備から着付けまで全部、自分でやってきたのだ。
これもすべては修行の一環であり、これから行おうとしている勝負への布石でもある。
チェーン店特有の入店チャイムが鳴って、人が入ってくる。
店員があからさまに笑顔を固まらせたが、そこは接客業、うろたえたのは一瞬だけで、すぐに立ち直って案内する。
テーブルに待ちかねていたメイドがやってくると、透は出迎えのために一度立ち上がった。
お辞儀は三年の社会人時代に――それ以前より前からずっと仕込まれてきたもの、堂に入ってしゃんとしている。
この一月弱、透は行動を持続させつつも、考えた。与えられてきたヒントから、答えを自分で導き出そうとした。
自分とは。家事とは。百鬼家とは。翠とは。勅使河原さんとは。寿子夫人とは――。
あらゆる知識の吸収と習慣の固定化に励みつつも、自分がどうしたいのかを考え――それがまとまると、今度は勅使河原夫人をどう説得すればいいのか必死になって頭を回した。
当然、家族の協力は惜しみない。リハーサルにはプレゼンガチ勢慶福氏とエンタメ一般人枠の寿子夫人という豪華メンバーを加えたぐらいだ、とりあえず詰め込めるだけ詰め込んで後は玉砕しろ! と放たれてきた前回とは違う。
――今回は、全部透が最初から進んで、主体となって動いているのだ。
「勅使河原さん。本日はお忙しい中、誠にありがとうございます」
「いえいえ、あたくしなんか老後を気ままに謳歌しているしがないババアですから」
今回は招かれている方であるところの老メイドは、今日もクラシカルメイドスタイルに謎の旅行バッグといういつもの出で立ちだった。促されて座り、素早くドリンクと軽めのデザートを頼むと、メニューを畳んでじっと若者を見据える。
透はぐっ、と唇を噛みしめたが、そこでこらえた。変に萎縮することなく、適度な緊張のまま、深呼吸をする。
気のせいだろうか、気むずかしい顔の老婦人がふっと目尻を一瞬だけゆるめたような気がした。――だが、油断は禁物だ。
「本日、お嬢様と一緒でなくてよろしいのですか?」
「ええと、お仕事入っちゃってるらしいので……」
「それはあたくしも存じておりますが」
透は少々食い下がられても慌てず、もう一度深呼吸して勅使河原の質問の意味を考える。
老婦人は厳しい眼光を放っては来るが、透が準備している間は待ってくれるのだ。
――大丈夫、ちゃんと言える。
「百鬼さんとは、やりとりをさせていただいています。この前も、お食事に連れて行っていただきました。
その時、今日、一緒にいてくださると言うご提案もあったのですが――俺の方から一人がいいと言ったんです。
理由は二つあります。
まず一つ目。彼女のお仕事の邪魔をしたくありません。俺を優先していただけるのは嬉しいことですが、彼女にとっての重要度を考えた場合、あちらの方が高いと考えました。
二つ目。これは俺の試験です。俺が一人でやるべきことだと思いました。もちろん、協力していただくことや、情報を共有することは、大事なんですけど――百鬼さんが保護者みたいにいる間は、たぶん勅使河原さんは俺のことを認めてくれない」
透はあらかじめ机の上に用意してあったパソコン画面を、くるりと反転させて勅使河原の方に向ける。
「勅使河原さん。あらかじめお伝えさせていただいた通り、本日はプレゼンテーションをさせていただきたいと思います」
そこで彼はちょっぴり詰まった。面はゆさが抜けきらないのは、生来奥ゆかしく、またずっと卑屈レベルの謙遜を美徳とすり込まれてきた人間だからだろう。
だが、顔を赤くし、少々どもりつつではあるものの、橋田透は言い切った。
「百鬼さんのお付き合いのビュー、プラン、課題と対策について――つ、つまり、橋田透のメリットについて。アピールさせていただきたいと、思います!」
勅使河原夫人は優雅に珈琲に口をつけ、カップを下ろす。
「お続けなさい、聞きましょう」
ぎらり、その眼光が、一段と鋭い光を放ったように見えた。




