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詰まったら振り出しに戻ってみる

「あっちゃん。ちょっといい? 相談というか、聞きたいことがあるから、時間もらいたいんだけど」


 テッシー試験の数日後、トオルは橋田家晩ご飯の準備を始めようとしていたアキラのいるキッチンに、ひょっこり首を出して聞いてみる。


 従妹は小さく無言で頷いて了承の意を示してくる。


 彼女の作業を見つめつつ、弟子がせっせと師匠のために料理道具を用意していると、ぽつりと小さな声が上がった。


「ごめんね、透お兄ちゃん」

「……えっ、なんで?」


 エプロンをつけている手を途中で止めて透が驚きの声を上げると、翠はこちらを向くことなく、手元に視線を落としたまま、彼女にしては覇気のない調子で言葉を続ける。


「新学期始まって、私も透お兄ちゃんに全然時間割けなくなっちゃってるし……」

「それは元からわかってたことだし、あっちゃんが自分を責める必要なんてどこにもないんだよ!」

「でも、テッシーの試験――」


 透は自然な動きで炊飯器の蓋を開け、五合の釜を取り出した。


 今日は寿子夫人の気まぐれとずぼらにより、朝の分の炊き置きがないので、夕食には家族四人分の二・五合分、米びつを引き出してさっさと入れる。


 もっと食べ盛りだった頃や充がいた頃は、それこそ五合必要だったこともあるが、最近では多少控えめになっている。


 それでも慶福氏も透も、寿子夫人や翠に比べれば明らかにまだまだ食べるのだが。


「そのことなんだけどね、あっちゃん。俺って、いいお婿さんになると思う?」


 翠は透が黙っている間は、続ける言葉を迷っていたのか何も言わなかった。

 浄水を釜に入れながら透が問いかけると、ぱちくりと目を瞬かせる。


「いいお婿さんって、何?」

「そうだなあ。お給料いっぱい稼いで、仕事に真面目で、的な?」

「古き良き日本の因習。仕事一辺倒だから退職後に居場所がなくなるんだよ」

「あはは」


 透がステレオタイプな模範解答を返すと、リアリストなクールビューティーの態度はにべもない。


 彼女は百鬼ナギリ静華シズカと同様、自分で生きていけるタイプの女性なのだろう。きっとこの先、どんどんと数の増えてくる。


 じゃりじゃり音を立てながら、透は米をとぐ。ちなみにとぎ汁はプランターの植物に与えるのが橋田家流なので、じょうろを脇にセットするのも忘れない。


「じゃあさ。あっちゃんの考えるいいお婿さんって、何?」

「そんなの家庭の数だけ違うでしょ?」

「……個人的に、とかは?」


 あえて突っ込みを入れるのは、従妹がこういう人間だからこそだ。


 野菜の下処理を進めていた翠が、ぴたりと手を止める。


「家にいてくれる人がいい」


 やがて、長い沈黙の末に、頑張って聞き取らなければわからないほどの音量で導かれた答えは、シンプルにして重みを持つものだった。


 翠が料理の手を再開させると、今度は透の手が止まる。


 と言っても、研ぎ終わった炊飯器に浄水を入れているだけ、なのだが。


「俺さ。百鬼さんと初めて会ったとき……嬉しかったんだ。声をかけてもらえて。選んでもらえて」


 釜には二合や三合の水メモリはあるが、炊こうとしているのが中途半端な量なので自己判断が必要だ。

 蛇口を止めて、少し多いかな、と調整に水を垂らす。


「だけど、ずっと自信がなかった。だって俺、百鬼さんに比べて全然すごい人間じゃないんだもん。なんで選んでもらえたのかしっくりきてないし。百鬼さんは挫折の話をしてくれたけど、それでもやっぱり俺なんかとは全然レベルが違うよって、思っちゃってたんだ。

 ……ううん、今でも思ってるのかも。どうせ釣り合わないって」


 炊飯器を早炊きモードにセットしている横で、翠が透には真似できない素早い動きで野菜を切っているのがわかる。


「仕事がすっごくできる社会人に、皆の望む俺になれない俺に、違和感を覚えて辞めたはずだったけど――それは逃げだって気持ちが、あるんだ、きっと。

 俺は逃げた。ちゃんとやれなかった。駄目な奴なんだって――そう思っている限りは、きっと何をやってもうまくいかない。だけどどうすれば気持ちを変えられるのかも、わからないんだ」


 スイッチを入れて、立ち上がる。


 振り返った先では、翠が素早く切り終わった材料を鍋に投入していた。


 未だ包丁の扱いもピーラーも怪しい透は、シンクに溜まる洗い物をどうにかしようかと考えて、それでは翠の邪魔になるから見学をするか別の作業をしようか考え始めている。


 とんとん、とまな板を叩いていた音が止まった。


「お米がとげるようになって、炊飯器でご飯が炊けるようになった」

「……へっ?」

「包丁はまだ危なっかしいけど、帰ってきたらとりあえずお湯を沸かしてお茶を入れるようになったし、お皿洗いはするし、三角コーナーの生ゴミは処理してゴミ取りネットは付け替えてくれる、排水が詰まったらぬめり取りもしてくれる」


 翠は料理を続けながら喋っている。透に見えているのは背中だけだ。彼女は透が唖然としていると、すらすらと言葉を続ける。


「トイレ掃除も気をつけてくれるようになった。

 掃除機のパックの交換を率先してやってくれるし、洗濯物は回せるようになったし、お買い物のお使いもわからなかったら聞くようになった。

 冷蔵庫の中を気にするようになったし、家のインテリアとかもそう。

 何がどれぐらいあるか、在庫名簿も、少しずつだけどアプリで管理したり試しているよね。

 レシートもおばさんに渡すだけじゃなくて、自分で出費を記録する癖をつけようとしている。

 最近だと、値段や旬にもちょっと興味を持ち始めてきた。

 毎日の習慣管理も、少しずつ進めようとしている。

 私だけじゃない、寿子おばさんだって言ってるよ。

 あの人は、透お兄ちゃんを面と向かって褒めるのが気恥ずかしいらしいけどさ」

「あっちゃん……?」


 具を全て鍋に入れた翠は、加熱ボタンを押す。


 温まるまでは目を離してもいいのだろうか、透の方をくるりと振り返って、真っ黒な目で見据えてきた。


「できないままなんかじゃない。ちゃんと、少しずつだけど、透お兄ちゃんのなりたい方に変わってる、違う?

 透お兄ちゃんのいいところは、そうやって一度気にするようになったら、たとえできなくても、追いつかなくても、ちゃんと目が届くようになるところ。

 知ってる? そういうこと、何にも知らないままで、知らないままでいいと思ってる人もたくさんいるんだよ」


 呆然と棒立ちしている透の横をすり抜けて、翠は一度キッチンを出て行く。


 戻ってきた彼女の手には、透が一ヶ月以上、ずっと使って早くもすり切れて薄汚れているノートが握られていた。


「私は、百鬼さんに透お兄ちゃんがふさわしくないとは思わない。

 テッシーが透お兄ちゃんの良さをわかってくれないとも思わない。

 自分がわからなくても、自分の努力の記録なら、ちゃんとここにあるよ」


 手渡されたノートを受け取る手が震えて、視界がにじむ。

 ぐしっと手で顔をこすった彼に、もう一声。


「自分が信じられなくても、私の言うことなら信じられるんじゃない?

 兄ちゃんなら、家で待っていてほしい人になれる。時間はかかっても、絶対になれる」


 手を下ろしても、ぽたぽた自分の目から落ちていく物は止まなかった。


「ありがとう、あっちゃん……」


 ――こんなこともできないのか。

 ――こんなことも知らないのか。


 過程の努力をどんなにしても、結果で失望されてきた人生。


 家事を始めても同じような物だと思っていた。できないことは増える一方だった。


 けれど、違う。それだけではない。

 少しずつ、少しずつ、変わっていることをわかってくれて、教えてくれて――待ってくれる人がいる。


 苦しくても、この道を進んで、待ってくれている人の元にたどり着きたい。


「やっぱり俺、もう少し、あと少しだけ、頑張ってみたい。勅使河原さんと、話してみる」


 もう一度顔を上げた橋田透は、みっともなく目を真っ赤に腫らし、鼻をすすりながらも、凛とした顔立ちになる。


 翠は珍しく、そんな彼に柔らかな微笑みを一瞬浮かべて見せたのだった。

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