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ぐるぐるモラトリアム

 外で食べてきます。

 簡素に家族にメッセージを送ってから、電車を乗り継いだ。


 車内で路線図を見上げていると、見覚えのある駅――通勤のために毎日使っていた駅が目に入って、びくっと身体が強張った。そんな自分の態度に気がついて、はっとなる。


 ――こんなに嫌だったんだ。あの会社に行くの。


 辞めた自分を、責める気持ちはなかなかぬぐい去れないし、これからどうしようかという不安はまだ残り続けているけれど。


 辞めたことが間違いだったとは、やっぱりどうしても思えない。


 ――会社に行くのが、辛いんだ。


 最初に勇気を振り絞って、橋田家の食卓でぽつりと言葉を零した時のことを思い出す。


 優しい透の両親は、彼の決定を否定することはなかった。


 ――透は優しくて不器用だから、今のお仕事が合ってないんじゃないかと思うこともあったわ。大丈夫よ、ゆっくりしなさい。


 そんな風に言われて、確かに安堵したが、あのとき同時に、のどもとでつかえる違和感を、飲み込んではいなかったか。会社でいつも、そうしていたように。


(俺、あのとき。何に不満だったんだろう?)


 ぼんやり首をかしげながらも歩みを進めていれば、いつかは目的地にたどり着く。



 三年の間に行きつけになったバーの扉を開けると、無口で無表情なマスターが渋面のまま顔を上げた。


「お久しぶりです。また、来てみたくなっちゃいました」


 懐かしさもあり、トオルが人なつっこい笑みを浮かべると、彼はバーのカウンターに顎をしゃくる。


 座れ、ということなのだろう。歓迎されているのかいないのか、けれどこの距離感がくすぐったく心地いい。


 平日のまだ早い時間帯だからだろうか、他の人は見当たらない。これもまた懐かしく、思わず入り口で立ち止まってぐるりと狭い店内を見渡す。


 マスターことバーテンダーは、透が棒立ちになっていても声をかけることはない。

 黙々とカウンターの中で、お通しと最初の一杯を準備を始めている。


 ようやく席に着いた透の前に置かれるのは、カルーアミルクと、ポテトチップス入りの卵焼きだ。


 ぶわっと、透の視界がにじむ。


「……ありがとう、ございます」


 彼が震える声で言うと、渋面のマスターはちらっと一瞥しただけでそれ以上何か言おうとしない。


「塩昆布キャベツと、餃子ソーセージ」


 客がさらに好物を注文すると、心得たようにうなずいて、準備を始めている。


 透はしばらくの間、ぼんやりとマスターの姿を目で追っていたが、やがてかっくり頭を下ろすと盛大に息を吐き出した。


「なんなんだろうな……」


 変わりたい、変われない。


 今更やってきたモラトリアムは重く両肩にのしかかり、なかなか離れてはくれないのだ。


 自分探しなんてするつもりはなかった。ほどほどに生きて、ほどほどに我慢して。それでなんとかなると思っていた。


 ――なんとかならなかったら、別の道を探すしかない、けど。


「そもそも俺、何がそんなに我慢できなかったんだ……?」


 自分自身に問いかけてみる。


 ――透ってさ。女みたいだよな。


 アルコールの入ったグラスに、突っ伏したまま目を向けていると、トラウマのいくつかが浮かび上がる。


 ――女みたいだったら、駄目なんだろうか。というか、女だったら、すごくないんだろうか。


 家事に挑戦してみたら、全然何もできなかった。


 あれを毎日、自分の分だけでなく、他人の分までこなしている母には素直に脱帽の気持ちだ。


 ――男は、稼いでこそ。


(……そっか。俺、まだ、モヤモヤの中で、違うと思いつつも、前の自分を捨てきれないままでいる、のかな)



 バーカウンターに沈み込んでいると、何度か背後で扉の開く音がした。


 入れ替わり立ち替わり、好きに飲んでは消えていく、人の静かな囁きと、都会の中でゆったりと止まった時間に、包まれて。



 いつの間にか、透は眠りこけていたようだった。

 はっと身体を起こすと、背中にかけられていた――たぶん膝掛け――がずり落ちる。


 そこでまた、扉の開く音がした。店長が顔を上げて、入ってきた誰かにどこか心得顔で顎をしゃくる。


 コツコツ小気味よい音を立てるヒール音が近づいてきて、隣の椅子が引かれる。


「お邪魔かな、お兄さん」


 ああ、これもまた既視感だ。


「――いいえ」


 身を起こした透は、不思議と今日は慌てず落ち着いて、ほんわり笑顔で彼女を迎えることができた。


 今日も今日とてすらりとしつつ所々ボリューミーなシルエットを惜しみなく披露するような、それでいてふしだらではなくあくまでかっこいい印象を残す服に身を包んでいる静華は、早速度の高い酒を注文してぐいっと煽っている。


 沈黙が二人の間に落ちたが、けして気まずくはなかった。


 透は考えて、静華は待っている。それだけのことなのだ。


 ――きっと静華は、待たなくなったら、一瞥もせず去って行く、そういう人だから。


百鬼ナギリさんは、いつでも俺の言葉を待ってくれている。……俺が、どうしたいか考えなければいけないのでしょうけど。考えれば考えるほど、どん詰まりです」


 透はだらしない格好のまま、何を飾ることもなく弱音を吐き出した。


 あの日、初めて出会った時、そうしたように。


 すると静華は、グラスの氷をカラカラと回しながら返してくる。


「私はね。こうしたい、で、どうにもならなくなったときは、発想を逆転させてみることにしているんだ」

「……逆転?」

「絶対にこうはなってほしくない、最悪中の最悪を考える。それから、どうしたらその最悪になってしまうのか考えてみる。後は簡単さ、より最悪にならない選択を続けていくだけ。消極的だと思うかい?」


 透は数秒止まってから、頭を左右にもぞもぞと振った。


 再び、静華がグラスに口をつけ、リップが綺麗に乗った唇を動かす。


「いつでもベストは選べない。でも、だからって一番になれなかった自分を責める必要はない。世の中、ベストじゃない選択の方が多いんだ。どうなりたいか、がどうしても浮かばないなら、どうなりたくないか、どうなったら絶対にいけないのかを、考えてみたらどうかな」


 透はゆっくり身体を起こした。じっと静華を見つめると、彼女のつややかな黒い瞳が返ってくる。


「俺、百鬼さんの事、かっこいいと思います。いっつも前を向いていて、しゃんと姿勢が伸びていて」

「そう?」

「でも、百鬼さんはかっこいいだけじゃなくて……そういう部分も見たけど、やっぱりかっこいいと思うんです」


 一度手元に目を落として、ごくりと唾を飲み込んでから。


「だから、百鬼さんと、どんな形でも――できれば、お付き合いを続けていきたいと、思っているんです。俺はどんな人間になればいいんでしょう?」


 静華はふっと口をゆるめた。視線を逸らし、そのまま小さく答える。


「私は、君が好きなときに笑って、嫌なときに嫌だとちゃんと言葉で言ってくれれば……きっと、長続きするんじゃないかなって、期待しているよ」


 透の頬に熱が回る。


 カルーアミルクは冷め切ったはずなのにおかしいな、と彼は頬をこすり、静華はその様子を頬杖を突いた優しい顔でいつまでも見つめていた。

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