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できることから、少しずつ

「とりあえず、見せて」


 アキラは朝ご飯が終わって食卓が片付けられると、トオルにまたテーブルを布巾で拭かせた後、成果が記されているであろうノートを持ってこさせて開いた。


「こんな感じ……」


 おそるおそる見せる透は、叱責を覚悟して縮こまっている。


 小さな上司はさっとページに目を通すと、ポーカーフェイスを上げた。


「なるほどね。一応、料理をしていたことと、洗濯をしていたことぐらいは理解できているのか」

「う、うん……ごめん、それぐらいしか、やってること、わかんなくて」

「いいんじゃないかな? まだ一日目の朝だし、ポイントは確認できてるみたいだから大丈夫だと思うよ」

「――えっ」


 てっきりさげすみの眼差しで見下されるか、大声で怒鳴られるか、ため息を吐かれるか――まあ、その辺のリアクションを想定していただけに、透は驚いて目を見張った。


「ほっ、本当? これで大丈夫なの? 二個しか書いてないけど」

「白紙よりはずっといいよ。もちろん、まだまだここにいっぱい書き込んでいってほしいところはあるけど。朝はぼんやりしてただろうし、慣れないことで何書けばいいかわからなかっただろうし、午前中、特に朝飯前に済ませておきたい二大家事をまず押さえられていたなら、上出来上出来」


 翠はパタンとノートを閉じると、透に返却する。従兄はあからさまにほっとしており、なんとなく嬉しそうだった。


「料理を作ることと、洗濯をすることって、朝の二大家事なの?」

「お弁当を出かける時間までに用意しなきゃいけないし、平行して朝ご飯は作らなきゃいけないし、洗濯物は季節にもよるけど、朝十時から午後の二時が基本的に外に出してていい時間帯だから」

「へー……」


 透はいそいそとノートを広げ、一生懸命今翠の言った事をメモしようとしている。彼女は切れ長の目をすっと細め、様子を見守っていた。



 橋田透という男は、どんくさい。何度もコツコツ挑むことに文句を言わないから、勉強だとか反復練習を言われた通りにこなすことにはむしろ向いている方なのだが、基本的に初めてやらされたことはことごとく失敗する。


 自分でもうまくいっていないだろうな、と思いながらおずおず見せて、がっかりされて、がっかりして――そうやって、透の負のループは完成する。


「こんなこともできないのか」


 経験者だからこそ初心者に言ってしまいがちな、最も簡単に成長の芽を摘む言葉である。


 彼が社会人生活のスタートダッシュでこけて、ずるずる低空飛行し、三年後に退職になったキーワードの一つでもある。



 翠は細かい社会人の教育のノウハウについて知っているわけではないが、できないことを指摘するだけでは相手の成長を必ずしも促せるわけでないことは、体感的にわかっているのだろう。


 まずは透ができたことを肯定し、褒めた。


 すると透も思考停止して謝罪モードに入る必要がない。彼は素直だし、翠のことを信頼してもいるので、ほっとしていると質問も口に出すことができる。


 翠は答えを用意しつつ、透がどこに引っかかっているのかを把握することができる。


「引き続き、この調子で一日、寿子としこ伯母さんの行動を記録していってみて。で、そんな風に、何か付け足すことがあったらガンガン書き足していってみて」

「うん!」

「私は今日はもうこの家帰ってこないから、また明日の晩ご飯の時に進捗教えてくれる?」

「わかった、ありがとう、あっちゃん!」


 表情筋を固まらせたまま従妹が鞄を出してくるのとほぼ同時に、ぞろぞろとリビングに橋田家夫婦が顔を出す。


「透ー、駅まで二人を車で送っていってちょーだい。あんた運転は上手なんだから」

「え? ああ、はいはい」


 橋田家から駅までは、徒歩で二十分を越える、それが車を用いると、信号にもよるが、十分以内だ。


 けして歩いて行けない距離というわけではないのだが、微妙に鬱陶しい長さでもある。朝の忙しい時間帯は、大体寿子夫人が駅までの輸送を担当している。


 透は出勤者だった頃は送られる方だったので後部座席に収まっていたが、こう何も用事のない身分になってみると、何かと家のことで忙しそうな寿子夫人より適任と言えるだろう。



 橋田家長男が何の文句もなく運転手として出動すれば、橋田家の父と広瀬家の娘はこれまた特に何かを言うわけでもなく、大人しく駐車場にぞろぞろ向かって、シートベルト着用までよどみない。


 いってらっしゃーい! と今日は仕事が一つ減って機嫌の良さそうな寿子夫人に見送られ、三人は橋田家を後にする。



 慣れた手つきで発進を滞りなく終わらせると、透は後部座席に向かって呼びかけた。


「そういえば、俺やミツルも、高校までは駅まで毎日車で送っていってもらっていたっけ? 部活も送迎してもらってたしなあ」


 送られていたときは当然のことだと思って特に深く考えていなかったが、寿子夫人の朝の仕事ぶりを見ていると、あの合間に毎日車を出してくれていたのかと、ちょっと母を見直して感動している素直な長男なのである。


「伯父さんはバイク派だったけど、一回事故ったからね」

「母さんはあれ以来二輪車を警戒していて、ほとんど乗せてくれなくなったからなあ」

「あはは……」


 後部座席でしれっと交わされる会話に、運転手は苦笑した。



 慶福よしとみ氏が通勤途中で事故に遭ったのは、確か透がまだ小学生の頃のこと。


 見通しの悪い交差点でぶつかられて吹っ飛び、バイクの方は見事にご臨終あそばされた。


 ところが逆にそれで物に全部ダメージがいってくれたのか、人の方は他所の怪我で済み、後遺症も残らなかった。


「子どもの頃に習っていた空手の受け身が役に立ったな」とは、牽かれた割に案外ピンピンしていた怪我人の弁だ。


 だがやっぱり、警察署に呼び出されたと思ったら家族が首から出血してシャツを真っ赤に染めていたなんて光景、いくら本人が無事だと言い張っても、トラウマになって当然だろう。


 寿子夫人が以降、慶福氏の気軽なツーリングにまなこをつりあげるようになったのも、多少は仕方ないことなのではなかろうか。


「ていうかあっちゃん。まだ学校始まってないよね? こんな朝早くからどこ行くの?」

「私用」

「そっかあ……」


 そんな塩対応モードの翠との会話もはさみつつ、短い駅への道は終わりを告げる。


「じゃ、透。頑張りなさい」

「にーちゃん、ファイト」

「あ、うん。いってらっしゃい」


 周囲の車や人に気をつけて降りた二人が、口々に言う。


 駅前はいつでも激戦区、長居はマナー違反だ。透も軽く手を振って答えると、二人を最後まで見送ることはなく、素早く再び車を発進させて帰路についた。



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