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この時点で詰んでいると言ってはいけない

 その日のトオルの受難は、朝、強引に掛け布団を引っぺがされた事から始まった。


「透ー、朝よぅ!」


 寿子としこ夫人の謎のかけ声「ウェイカッ、ウェイカッ」が本日の目覚まし代わりである。たぶん発音がアレなため聞き取れないが、本人はウェイクアップと言っているつもりなのだろう。


 心底嫌そうな寝起きの顔で橋田家長男はベッドサイドを探り、本物の目覚まし時計で時間を確認するとこれまた露骨に唸った。


「まだ五時だよ母さん、早くない……!?」


 夫や息子の寝起きが悪い場合、橋田家の母が寝込みを遅いに来るのはいつものことだが、時間が一時間違うだけで、こんなにも身体がだるい、まぶたが重い。


 今週一週間を散々ため込んだ(溜めたい訳ではなかったのだが、色々事情があって使いきれていなかったのだ)有給消化に使って本当に良かった。


 割と最悪な寝起き過ぎて、仕事があったらそっちまで響いたような気がする。


 布団を失ってもまだ見苦しくベッドの上でごろごろ転がっている息子の上で、橋田家の母は無情にも掛け布団をバサバサはためかしている。


 風圧と音とその他色々で、透は見事に二度寝を阻止された。


「なーにつれないこと言ってるのよう。

 今日からあたしの仕事っぷりを一日観察するんでしょう? 

 オカンはねえ、誰よりも早く起きて準備することが、たくさんあるのよう。

 あんた朝はノロノロしてるんだから、ほらほらほらあ、うりうりいー」

「ぐあああ、やめろおおおおお……」

「プロの主婦ですからあたしもお世話することに文句は言いませんけどね、折角の機会ですもの。

 少しはあたしの気持ちを体感しなさいよう、そして涙して感謝して這いつくばって土下座しなさいよう、写メって保存するから。

 ほーら、ウェイカッ、ウェイカッ、シャーラップ!」

「わかったよわかった起きる、起きるからその英語力ゼロなこと丸わかりな新手の闇の儀式みたいなかけ声やめてよ!? 夢に出そう!」


 悲鳴を上げつつ、橋田家の長男はきしむ身体を起こした。


 息子が抵抗を諦めた所まで確認して、母はようやく部屋を出ていく。


 追い剥ぎにあった気分というか、予告なく台風にぶつかられた気分というか。


 その後彼が本格的に起動するまでには十分以上を必要とする。朝にはあまり強くない方で、イレギュラーな時間に起こされると大体いつもこんな感じなのだ。



 呆然とした顔で下に降りていくと、昨日はご宿泊であったもう一人の主婦、アキラが顔を上げる。


「おはよう透お兄ちゃん」

「おはようあっちゃん。早いね……」

「普通」


 従妹は今日も朝から平常運転であった。


 バッサリ透を切り捨てると、透にノートを押し付けると、入れ替わるように引っ込んでいってしまう。


 まだ頭のCPUがまともに動いていない透は、はてと首を傾げつつも、渡されたものをなにも考えず開いた。


 ……透がぼーっとしていた間の、寿子夫人の行動観察記録が残っている。


 彼が稼働していなかった時の穴を埋めつつ、お手本サンプルも示す。さらに本人がきたら速やかに仕事を任せ、配置を変えるという手腕だ。


 小さな上司は、いつでも有能である。部下の方もそのうちでいいので、ぜひ彼女を見習って躍進していただきたいところだ。


「あっぢゃんんんんん」

「あらだめよう、あっちゃんこの時間は本当は自習時間なんだから、邪魔しちゃあ」

「ぶっ」


 ずびっ、と早速やりかけた透は、寿子夫人に箱ティッシュを押し付けられてつぶれた声を上げた。


 鼻をかみつつ、ぼやく。


「こんな早くから起きて、何するのさ……?」

「んまっ! ご飯と洗濯物と掃除が自動錬成されると思っている子はやーねー!」

「あ、そっか。ごめん……」

「わかればよろしい」


 寝起きに機嫌が悪くて文句を言っても、すぐに思い直して謝るのが透の癖だ。


 口答えばかりする橋田家次男のミツルと違って、橋田家の母との喧嘩も起こりにくい。


 寿子夫人は、棒立ちになっている息子の前でてきぱきと朝の支度を整えていく。


 ぼーっとした目で見送っていた透は、いつのまにか他の橋田家メンバーがぞろぞろ集まってきている気配を感じてはっと意識を取り戻した。


「おはよう」

「おはよう父さん」

「おはよー、お父さん」

「おはよう伯父さん」


 ぬぼっと現れたるは慶福よしとみ氏。


 次いで翠がてきぱき食卓につく。



 橋田家の朝ごはんは和食メニューである。


 ご飯に味噌汁(あいもかわらずモヤシだが、今日の慶福氏はノーコメントだった。彼は学習しては定期的に忘れる男である)、卵焼き、自家製の漬物――後は大体ここに昨晩の余り物が加わるという寸法だ。


 いただきますの挨拶をして、朝のニュースをバックグラウンドに和やかな食事を始める。


「で、透お兄ちゃん。首尾はどう」


 翠が聞くと、透はへらりと人のよい笑顔を向けた。


「何をしているかわからないことと、母さんはすごいってことはよくわかった」

「それはつまりほとんど何もわかってないというんじゃ、いたたた、お母さん朝から脛は駄目だよ」

「いいのよう! 母を崇め奉ってくれればあたしはひとまず満足よう!」

「大丈夫だよ透お兄ちゃん、想定内だから」


 順に、福富氏、寿子夫人、翠の発言である。


 翠は口角を上げて穏やかな顔を演出しようとしていたようだが、その目はやはり事態の深刻さに据わりきっていた。

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