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お母さん、大変なことになりました

「ただいまー……」

「お帰りー。チェーン下ろしちゃってね、今日もう誰も帰ってこないから」


 げっそりやつれた顔のまま、小声で橋田家の玄関を開けた透は、すぐに返ってきた返事の声におやっと首をかしげた。


 指示通り、チェーンロックまでしてから靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングの扉を開ける。


「あれ、遅くなるかもしれないから先に寝ててって、連絡しなかった?」

「だって飲んできたんでしょ? べろんべろんだったら介抱したり救急車の判断あるかなと思って」

「うっ」

「まあ、でも、透のことだから、無意識に門限守ってちゃんと帰ってくるだろうなあって。あんた本当に手がかからない子だけどねえ、もうちょっとグレてもお母さんいいと思ってるのよ?」

「ううっ……」

「冷凍庫にアイスあるけど食べる?」

「食べる……」

「あ、自分で出してね。お母さん今忙しいから」

「はい……」


 いかにも風呂上がりですという見た目、パジャマ姿で頭にタオルを巻いたままソファーに寝そべってスマートフォンをいじっているは、橋田家が母、寿子としこ夫人である。なんともしどけな――いや、母の主観で美化するのはやめよう。所帯じみていてだらしない格好だった。


 たぶんゲームをしていたのだろう。息子よりよっぽど優れたフリック操作の摩擦で火を吹きそうな勢いだ。


 御年アラウンドフィフティ。橋田家の男共のことなぞほとんど全部お見通しの魔女様の威厳と言ったら半端ない。


 何せ絶賛顔パック中だった。そのままこちらを向かれると、ちょっとしたホラー映像だ。


 が、場所は我が家の中であるし、時間も時間。何より透は見慣れている光景なので、一瞬だけぎょっとした後は特に騒ぐこともない。


「父さんは? 会社に泊まり?」


 きょろきょろ見回して、もう一人の橋田家メンバーの姿が見えないので彼は再び母に問う。


「今日ちょっと無理かも山場かもって元から言ってたもの。SNSの連絡も来ないし、きっと修羅場で今頃栄養ドリンク三本目ぐらいに突入しただろうから、ここからハンドパワー送って応援しておくわぁ」

「……そ、そう」


 橋田家の大黒柱は、締め切り前につき、今晩も残業にいそしんでいるらしい。というかこの一週間ぐらい、ずっと連日帰ってきても魂が抜けているし、忙しそうだった。いつもこうというわけでなく、繁忙期ゆえの恒例行事だ。


 寿子夫人はおそらくスマートフォンでメッセージを送ったのだろう。画面に向けてくわっと目と手を開いて、自己申告通り何かの念を送り込んでいる。顔面に保湿パックを貼り付けたまま。


 そっ……と橋田家長男はオカルトな光景から目をそらし、そのまま二階の自分の部屋に帰ろうとした。


「あら、アイスはいいの?」

「お風呂……いや、シャワー浴びてからにする」



 宣言通りシャワーを浴びると、少しは人心地戻る思いだった。


 パジャマに着替え、アイスを求めてキッチンに行ってみようとすると、手前のダイニングの机の上に色々と物が並べられていた。


 パックを外して平凡な素顔に戻った母上殿が、せっせと働いており、なみなみ透明な液体を注いだコップとアイス、それにたっぷり梅干しの入ったタッパーを机の上に出しているのだ。


「……お水?」

「あんた弱いんだから、たっぷり飲んどきなさい。明日が違うわよ」


 頼るべきは人生の先輩の知恵である。透は三つのうち二つをありがたく受け取り、一つだけすっとやんわりながらはっきり掌で押しのけて拒絶の意思を示した。


「ありがとう。でも、できれば梅干しは、アイスと一緒には出してほしくなかったかな」

「いやあ、梅チョコアイスって意外といけると思うのよね」

「いやいやいやいや」

「いけるいけるいける」

「無理無理無理無理」

「可能性を信じて」

「リメンバーミツルドリンク」

「あの悲劇を忘れない」

「……発端は母さんだったでしょ、ちゃっかり被害者の方に混ざらないでくれる!?」


 ちょっとしたタッパーの押し合いは、寿子夫人が舌を出しつつ身を引いたおかげで勝敗を決した。


 橋田家の母は息子達に対し、定期的に無責任に新しい食べ合わせをさも美味しそうに語って聞かせると言う、ちょっとした悪い癖がある。ちなみにこれは夫であるかの大黒柱氏も通った道、橋田家の男は必ず受ける洗礼であるらしい。


 大体事前に自分でチャレンジし、不味さを噛みしめた上での犯行な辺りが、より一層男達には不可解だ。


 透の弟、橋田家次男のミツルは、それで小学校高学年時に青汁アップル牛乳の害を被り、以降「もうババアの言うことなんか何も信じねえ!」とグレた。


 さすがに時を経て傷が少しは浅くなった今ではもう少し親子の溝も修復されているが、就職しても実家暮らしを続けている長男と違って、次男がさっさと大学入学時点から一人暮らしを始めた理由の一つは間違いなくあれだろうと透は確信している。


 長男の方はぐれることこそなく優等生の道を進んだものの、次男が何度もだまされては信じる心を取り戻そうと戦い、結果闇落ちした例を横で見ていたこともあり、偉大なる母の新しい食べ合わせの提案だけは真に受けないことにすると深く心に刻んだのだった。



 水を何度も飲んで喉を潤し、棒チョコアイスが溶ける前に手早く食べて、タッパーは蓋をしたままそっと冷蔵庫に戻す。


 明日もまだ酔いが残っているようだったらお世話になろう、だがチョコアイスとは食べ合わせないよ、と閉じた冷蔵庫を拝んでいる透に、ダイニングテーブルの上にスマートフォンをぽんと置いた母上殿が声をかけてくる。


「それで、どうすることにしたの」

「……あのね。実はなんというか、こう……大変なことになったんだ」


 事前に会社を辞めようと考えている旨については、既に同居人の橋田家夫妻に伝えてある。今日辺り長男が一世一代の決意の元届けを出してこようと考えていたことも、ろくに寝ていない夫の方はちょっと怪しいかもしれないが、妻の方はちゃんと把握済だ。ゆえにこうして聞いている。


 が、事はそれだけで済まなかったのである。


 透は母の向かい側に座ると両手を組み、ものすごく真剣に、真面目な顔で重々しく言った。


「俺ね。今の会社辞めた後、嫁入りすることになるかもしれない」


 前人未踏の青汁カクテルを開発した前科を持つ橋田家の女とて、これはさすがに予想外らしかった。


「……あらやだ」


 たっぷり時間を置いた後、ようやく一言だけ声を出して反応する。その表情はどう見ても訳がわからないと言っている、困惑である。


 透は盛大に息を吐き出した後、行きつけのバーで結ばれた奇妙な縁について、ぽつりぽつりと話し始めたのであった。

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