花嫁修業を始めます
今日の晩ご飯は寿子夫人の担当だった。ご飯の合図を受けてぞろぞろ集まり、食卓につかんとする橋田家の男性陣に一瞬ピリッと緊張が走る。
サーモンのホイル焼きにモヤシの味噌汁、キュウリとトマト等々、割と無難そうなメニューが並んでいるのを見ると、露骨にほっと肩の力が抜ける。
コップに入っている飲み物の色も緑色じゃないから大丈夫だ。たぶん。きっと。おそらく。ヤバいときは大体色と見た目から既にエグイから見た目が普通むしろ地味な今回は平気平気。
ただし慶福氏は、露骨な野菜責めの様子に、
「何の意趣返しだ、心当たりがありそうでなさそうで……やっぱりないな」
とコメントし、
「お土産を買ってこなかった罰よう!」
とデコピンをされていた。
慶福氏は繁忙期が続いて家を留守にしがちになると、露骨に物で釣って妻の機嫌を取り出すのだが、最近愛情が薄れたのか長年連れ添って油断が出てきたのか、そのお愛想すら振る舞わなくなったのが、寿子夫人的に不服らしい。
ただしこうしてつつかれると翌日大人しく駅前の高級プリンを買ってくるあたりが、夫婦円満の秘訣なのかもしれない。慶福氏は基本的に忘れているか興味がないだけで、言われれば動く男なので。
食卓を囲むメンバーがそろうと全員で両手を合わせていただきますの声をばらばらに上げる。
足りない奴はこれでなんとかしろとでも言うように、生卵と納豆がどどんと食卓中央に置かれていた。慣れた様子の男性陣は、おかわりしたご飯の上で卵を割り、出汁入り醤油とかき混ぜている。納豆の方は寿子夫人の主食だ。主婦らしく健康志向なので。
「お母さんや」
「なーにお父さん」
「今週、モヤシが多い気がするよ」
「モヤシ応援週間なのよう、何よう、文句があるなら自分でお総菜でも買ってきなさいよう!」
「あいててて」
慶福氏は素直な男であるからして、率直な感想を述べて机の下で足を蹴られていた。
透は苦笑いし、翠は黙々とモヤシを咀嚼している。
橋田家の晩餐には、当然のように広瀬翠も座している事が多い。
防犯などの都合も考えられるため、もういっそのこと橋田家に来ないか、とかつて小学生の翠に寿子夫人が提案したことも過去にはある。
しかし、彼女はあくまで自分の家は広瀬家であるという立場を崩さなかった。
「私が待たないと、母さん、本当に帰ってこられなくなっちゃう」
その一言に、普段は口やかましい寿子夫人も、さすがにそれ以上何も言えなくなってしまったのである。
何せ、広瀬翠という幼い少女は、両親の離婚時も「一人になってしまうから」という理由で、収入なり生活面なり、明らかに苦労が見えている母親の方についていくことを自分で決めたのだ。昔から、年不相応にしっかり者の少女であった。
その後、翠の実父はさっさと再婚して新しい家庭を築き上げ――あちらで子どもも生まれていると言うことだから、ついて行く方がよかったとは、けして言いきれないだろう。
毎月の仕送りや誕生日のボーナス、学費を欠かした事はないが、積極的に娘の様子を見に来ることもない。それが翠の父親の姿だった。
橋田家はそんな翠が孤立しないように、常に門戸を開き、お節介を焼き続けた。寿子夫人は姪の意思を尊重しつつも、時にはもう一人の母同然に翠の面倒を見続けた。
その結果が、自分の家と橋田家を交互に行き来し、もはや橋田家の一人として勘定されかけている翠の今の生き方である。
翠は口にしたことはないが、自分の事を実の両親以上に気にかけてくれる橋田一家に恩義を感じているような節がどうにも見受けられた。
楽しくも忙しい、中学から高校への間の春休みを積極的に消費し、透の花嫁修業(仮)を全面的に手伝ってくれるのも、その一環であるように思われる。
晩ご飯が終わると、いつも通り慶福氏は片付けの後部屋に引き上げていき、透は台を拭いた。まだまだぎこちない手つきだが、まずはやるという習慣を付けることに意義があるのである。と、思う。
それも終わると、リビングで再び作戦会議が開かれる。
「透お兄ちゃん。まず、三月中は現状把握からって思ったんだけど――」
「あ、もしかしてさっきの掃除の様子見て、把握するまでもないって思った?」
「うん、それ。まるで駄目だって事だけはよくわかった」
翠が言おうとしたことに自分で答えておいて、滅茶苦茶しょぼんとへこむ透である。
従兄の様子を軽くスルーして、翠はスマホをいじって(たぶんその中に彼女のスケジュールなり作戦データなりが入っているのだ)話を続ける。
「四月から伯母さんに色々と習って欲しいんだけど、三月はまだ私も手伝えることがあるから、とりあえず明日から早速やっていこうと思うの。で、明日やってほしいことはね、これ」
透は翠にノートと筆記用具を押しつけられた。中身をちらっと見て明日の予定をチェックすると、「観察学習」と達筆で綴られている。
「……あっちゃん、なあに、これ。え、明日俺何すればいいの」
「古来より、修行の基本は師から見て盗め。ってことで、まずは手始めにね。寿子伯母さんのやっていることを観察して、片っ端からノートに気がついたことを書き込んでいってほしいの」
「か、観察……?」
「うん。伯母さんが毎日何をしているのか、それって一つの立派な主婦のお手本になるよね。この記録帳はこれからも修行中使っていってほしいけど、まずは伯母さんが毎日どう動いているのか、どういうスケジューリングで活動しているのか、理解・分析してみるといいと思うんだ。今更って思うかもしれないけど、案外知っているようで知らないことだらけだと思うよ」
透はノートにしばらく目を落とした後、へらっと微笑んだ。
「ねえ、これ、あっちゃんをお手本にしちゃ、駄目?」
「私に愛想笑いしてどうするの、お馬鹿」
効果はないようだ。透の顔がくしゃっとしわくちゃにゆがんだ。
「明日はちょっと他のことやりたいんだよね。というか私の力を頼りにしすぎない、それもちょっとずつでいいから覚えて。テッシーは私じゃなくて透お兄ちゃんをテストするんだからね」
露骨にヘルプを求めている表情を見て、従妹はすっと冷たく目を細めた。ここはどうやら鞭のふるい所らしい。
「とにかく、まずは今日から三日間、伯母さんが一日何をしているのか、取材して記録を残すこと。四日目にまたブリーフィングして、五日目六日目はお休み。それが今週の予定。わかったら返事は?」
「はいっ」
――こうして透は、奇しくも自らの母親の生態――もとい、行動観察記録を取ることになったのだった。




