不満ではない、不安なのだ(白目)
「透お兄ちゃん。駄目だよ、お休みはちゃんと確保しなくちゃ」
「へ?」
「二十四時間三百六十五日稼働できるように、人間の身体はできてないの。現に透お兄ちゃん、それで体調崩したんじゃないの? 仕事が追いつかないからって残業でカバーしようとして、できなかったんだよね?」
眼をつり上げ、口を尖らせる翠の言葉に、うっと言葉を詰まらせた。気まずく目をそらす。
「就職して張り切ってるのはいいけれど、根を詰めすぎると後でプッツンしちゃうわよう」
とは、就業中の透の様子を見て寿子夫人がかけた一言だ。
その時は、いや、これしき社会人なら当然のこと、できない自分が駄目なのだ、と目をギンギンにして日課に当たっていたが、後で予言通り、見事に透はプッツンして退職に至った。
若干トラウマにもなっている思い出の日々に、思わず胃の辺りを押さえてしまう。
「まあ、それは……」
「いつも忙しくて他に何もする余裕がありませんなんて、全然かっこよくないから。ちゃんとやるときと、もういっそ何もしないって休むとき、ちゃんと分けてあげないと、ずっと身体が緊張して疲れが溜まっちゃうよ?」
ぐさぐさ突き刺さり続ける翠の言葉だが、今のは一際深くざっくり来た。
まさに透が三年続けた仕事をやめることになったのは、休みの日にも残った仕事のことが気にかかり、ずるずると体調不良と仕事の不調を続け、ついにはダウンし、それを叱責され――という負のループが原因だったからだ。
キリキリしてきた胸を押さえてうめいている透の前で、翠は手が止まっている彼の手からリングノート(ルーズリーフをバインダーで止めるタイプのものだ)と筆記用具を取り上げ、さらさらと書き込みをしていく。
「できない事を強いてもどうせできないだけ。だったら最初からやらない、やらせない。休みやゆとりが組み込まれてない作業の日程表なんて論外だよ? それって不測の事態が起きてもカバーする余裕がないってことだし」
「うん……」
「それにね、別に最悪、テッシーの試験に合格できなくても、透お兄ちゃんが悪いってわけじゃないし、透お兄ちゃんの人生が終わるわけでもない。思い詰めすぎなくていいんだよ」
「あっぢゃんんん」
「泣くな鬱陶しい」
「あい」
ずび、と透が鼻をすすると翠はリビング上の箱ティッシュをぴんと指ではじいて透の前に送り込んだ。
鞭をふるいつつ飴も欠かさない。今日も透の従妹は有能なマネージャーだ。
彼女はノートにきびきび線を引き文字をつづり、ささっと予定表の枠を作った。そこで一度手を止め、顔を上げる。
「……ってことで、四月からはまず、週休二日の一週間五日間制で特訓を行いたいと思うんだけど。平日勤務、土日休みでどう」
「ええと……その、よろしくお願いしますっていうか、俺は基本的に、言ってくれればなんでもするから、問題ないと思うんだけど……」
「……何?」
「特訓はあっちゃんが教えてくれるの? 今はまだ春休みだけど、学校始まったら時間なくなっちゃうと思うんだけど……」
テッシーの恐怖の主夫テスト(仮)を乗り切るためには、自分の今の成績が絶望的なことなことぐらい、透にも薄々わかっている。故に、誰か教えを請う相手が必要で、修行を積まなければならないことも。
しかしここで問題になってくるのが、目の前で今透をビシバシしごいてくれている推定一番の適任者が約一週間後には花の新入女子高生になる身であるということだ。
春休み中はともかく、学校が始まったら透に構ってばかりもいられまい。自分の事となると気が回らずあたふた指示待ちになってしまう透だが、他人のことには比較的良く気がつく。
翠は指摘されて、それね、と腕を組んだ。
「そうなんだよね……そこは、寿子伯母さんに頼るのが今のところ一番なのかな? って思ってるんだけどさ」
「母さんに!?」
「プロの主婦だし、伝手もいらないし。というか私より適任でしょ」
「いや、そりゃそうだけど……」
「何か文句あるの?」
「不満はないけど、不安はいっぱいある」
「ああ……」
翠なら尻尾を振ってたとえ山なり谷なり誠心誠意ついて行く気にもなるが、あの母が教師になると言われると、どうしてもおののいてしまう透である。
翠も透の言葉を否定しようとしない、むしろ納得したような声を上げている。
「あらなあに、あたしの噂?」
そして二人が話題に上げたタイミングと、ちょうどキッチンで作業をしていた寿子夫人がダイニングに出てきたのが大体同じぐらいだったらしい。
耳ざとく聞きつけた寿子夫人がやってくると、透は渋い顔で振り返り、翠は表情の読み取りにくいいつものポーカーフェイスを上げる。
「伯母さん。透お兄ちゃんの修行のお師匠様になってほしいんですけど」
「あらあらまあまあ。なんだか面白そうなことになっているわねえ」
「母さん……」
「透お兄ちゃん、おびえなくていいよ。私が計画とやることリスト手伝ってあげるから」
「あっちゃん……!」
「感動するのはいいからお兄ちゃんもスケジュール作成手伝って」
「ウス」
こうして翠の絶対零度の眼差しと寿子夫人の観音のごとき微笑みのもと、透の一月分の予定表が作成されたのだった。




