ゴンゾウ先輩は新参者に厳しい
「オウ見ねえ顔だなワレェ、あちしのテリトリーで何しんだい礼儀のなってないガキだね、いてこましたろか、オオン?」
犬語にテロップをつけるとしたらこんな感じだろうか。どう見ても侵入者に対して好戦的な態度の犬だったが、しかし直後飼い主が声をかけると態度が変わる。
「ゴンゾウ、お座り!」
静華がぴしりと声をかけると、柴犬はピタッと止まり、くりっとまるで愛玩動物のような可愛い顔になった。お座りのポーズで待機していて、なかなかに賢そうな御仁だ。
――主が自分から目を離した瞬間、ソファで縮こまっている新参者に向かって牙をむき出しにしたところといい、ヘタレな駄犬(ただし成人済人間の男性である)より、よっぽど肝の据わっていて頭の回りそうなワンコ様である。
「げ……元気な、柴犬くんですね……?」
「ゴンゾウは雑種の雌だよ」
「!?」
新たな登場人物――じゃなかった動物に何を言うべきか迷ってから、まずは無難なところから、と行こうとした透の出鼻がまたも早速くじかれる。
雑種なのはともかく、なんで雌なのにゴンゾウ。
わかりやすく透の顔に書いてあったからだろう。静華は再びソファーに座り、空になった二人分のカップに紅茶のおかわりを注ぎつつ話してくれる。
「この子、保護施設から子犬の頃にもらってきたんだけどさ。なんかこう……まあ、その時のお世話係さんか、その前の飼い主さん、ブリーダーさんの趣味だったってことなのかな? 私が知り合った頃にはもう、ゴンゾウ以外で返事しなくなっちゃって……本人が気に入ってるなら、いいかなってことで」
「ワン!」
「ちなみに母が、もうちょっと可愛くて横文字の名前がいいと言ったので、正式にはゴンゾウ=ショコラ=エスプレッソと言うんだ。まあ、ショコラとかエスプレッソって呼んでも反応しないからあまり意味はない本名なんだけどね」
「ワンワン!」
「さらにちなみに、ショコラは母がつけてエスプレッソは私がつけた。この顔はショコラよりエスプレッソだと思わないか?」
「ウー、ワオーン!」
「ゴンゾウ、お座り」
静華の言葉に威勢のよい吠え声がタイミングよく差し挟まれる。けれどたしなめられるとピタッと黙る。実に練度の高い……じゃない、しつけの行き届いた犬だ。
「ソウカモシレマセンネ……?」
このなんとも言いがたい空気に若干置いてけぼりにされかけている訪問者が、焦点の合わない目と片言で応じてしまったのは、仕方ない事と言えよう。
百鬼家に来て一体何度、透は卒倒――は行き過ぎとしても、せめて放心――したいと思ったかわからない。実際、何度か意識が遠のいているのを感じる。
「前は猫もいたんだけど、そっちは母が連れて行っちゃったから。今は……やっぱりこの部屋に一人と一匹だと、少し寂しいと感じる部分もある。ね、ゴンゾウ」
「ワフン!」
ただ、この場における唯一の救いと言えることは、この賢い柴犬顔の雑種犬が静華に忠実であり、彼女が統率の取れる飼い主であったと言うことだろう。
ゴンゾウ(=ショコラ=エスプレッソ)の透を見る目は、控えめに見積もって、獲物か三下を見るものだった。
それでも彼女は、静華が抑えている間はお座りのポーズで尻尾をガン振りするにとどめているようだった。
今すぐに襲われないとわかると、透にも少し余裕が出てくる。具体的に言うとお茶のおかわりを頂く程度に。
「そうだ透君。時間も夕方でちょうどいいし、一緒に散歩に行ってみる? なんならほら、晩ご飯のために早く帰らなきゃ行けないって事だし、駅までそのまま送っていくよ」
出てきたと思ったら一瞬で消え失せた。諸行無常である。
「それとも、犬は嫌い?」
吹き出しかけている透に、静華は気遣うような眼差しを、ゴンゾウは……およそ好意的とは表現できない眼差しを向けてきている。
「あ、その……急に吠えかかったりとか、襲いかかったりとか、してこなければ」
「そっか。これからも家に来るようになるなら、ゴンゾウにも慣れてもらいたいし。まあ、何事もお試しからってことで……どう?」
「だ、大丈夫……です。たぶん」
透はしどろもどろになりつつも、なんとか勇気を振り絞った結果、敵前逃亡は避けられたようだ。
動物は好きか嫌いで言ったら好きなぐらいだ。ただ、襲いかかられたくないのも事実。本能で生きる種は、昔から残酷なことに、透の顔を見ては「こいつなら勝てそう」と正確にヒエラルキーを判断する。結果、透は動物相手にも大概負け続きである。
しかし、百鬼静華と今後も交流を重ね、彼女の家に時折お招きいただく関係を継続したいと言うのなら、この難攻不落そうな番犬様ともうまく付き合っていかねばなるまい。
飼い主が散歩の用意を始めると、賢いゴンゾウは自ら率先してリードや散歩セットのバッグを持ってくるなど、お手伝いをしている。
室内では首輪オンリーのようだが、お出かけ時はハーネスをつけるらしく、これも大人しく舌を出して媚びながら装着されるがまま。
そして透は、完全に一人と一匹を見守りながら後ろをついていく係だ。ゴンゾウ様は、彼女のテリトリーを侵さなければあちらも無関心、という距離感をひとまず取ることに決めたようなので。
静華は散歩のために多少汚れてもいい服装に着替えたが、透はその間お茶を片付けようとして、散々迷った挙げ句、結局流しに運んで軽くカップをゆすぎ、茶葉をゴミ箱に捨てるにとどめる。
洗い物は……始めたらこの流し一帯を駆逐せねばならぬような気がしたし、その間にいかにも高そうなアンティークの数々の一つでも割るのが怖い。
ぼんやりうっかりな男にしては十分すぎる思慮と言えよう。ゆすぐどころか流しに持っていくだけでも家主は喜んでいたのでよしとしよう。
この辺りも帰ったら師匠に詳しく聞かなければ。というか師匠への業務報告、百鬼家の事情はどこまで話していいものか。悩みの尽きないどころか、次から次へと難題が浮上する橋田透である。
マンションを出てからようやく(途中で噂のエントランスのフロント係さんとやらと挨拶を交わした。どこの企業かホテルだよと突っ込みを入れたくなるが、ただの億ションである)、静華に促されて彼女の隣に並ぶ。
もちろん、ゴンゾウを挟む形でなく、静華を挟んでゴンゾウと一番距離を取れる位置に抜け目なくポジショニングしてある。
マンション周りの落ち着いた住宅街を歩いていると、ゴンゾウは飼い主からつかず離れず、軽くリードがたわんだ状態で好きに歩いている。
まこと、賢しい――じゃない、賢いお犬様である。静華が呼ぶとぱっと立ち止まって振り返るあたり、飼い主との信頼関係もうかがえる。
感心しきりの透だったが、ふと犬、と考えたところで前に話されていた内容とのちょっとした食い違いを思い出す。
「あの、そういえば静華さん。前に、モカって犬を飼っていたって」
ゴールデンレトリーバーで、一説によると透に似ているという話だった犬。
しかし目の前にいるのはゴンゾウ一頭、お母君が連れて行ったのはにゃんこ一匹と言うし……静華が過去形で話をしたということは、そういうことなのだろうか。
「モカは、私がちょうど高校生だった頃に天国に行っちゃって。その後もらってきたのがゴンゾウ」
案の定、彼女の口から珍しく割と予想通りの言葉が出てくる。
「なるほど」
「透君。モカのことより、もっと気になることがあるんじゃないかな?」
「へっ!?」
静華が止まると、ゴンゾウも紐が張ったのがわかったのか止まり、二人を振り返る。ちょっぴり不満そうだが、忠犬はさすがに察しよく物わかりがいい。その場に座り込むと、足で耳を引っ掻くなどして暇つぶしをしている。
「さっきから何か聞きたそうな顔してるからさ」
「ええと……あの、はい、気になっていないって言ったら嘘になります、が……」
何しろ静華の話すこと――特に家庭環境と履歴、職歴――にはいちいち突っ込みどころがあるが、どこからどこまで触れていいのかわからないし、そもそも彼女が突っ込みどころのつもりで話しているのかもわからない。
さて、自分は何を言ったらいいものか? 正直、現段階ですら既にキャパオーバーな感じがあるし、初回デートにしては色々開示されすぎではないかとも思うが、静華はどことなく話したそうでもあるし、ならば期待に応えてあげた方がいいのかな? とも思うが――。
ところが今日の透は、こういうところでとことん間が悪かった。
彼が再び声を上げる前に、ゴンゾウが急に吠えだす。
「おや、静華お嬢様。お散歩ですか」
散歩同伴者二名が顔を向けた先、彼女の吠える先に、またも新たな百鬼家関係者が現れたのだった。




