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失業したら嫁入りを希望されました

 橋田ハシダトオルは今年二十五歳になる。模範的優等生であった彼は、学生時代は体調不良以外で授業や講義をさぼったことがなく、留年の危なげもなく大学に進学、卒業。順調にキャリアのエスカレーターに乗り、大手企業に就職。まさに勝ち組人生。


 ――の、はずだった。


 つい最近、退職届を出してくるまでは。



「マスター。どーして、こうなっちゃったんだと思いますー?」


 余っている有給を使って早引けしてきた彼は、三年の間に行きつけになったバーのカウンターに突っ伏して、早くも面倒な辛み酒の様相を呈している。


 橋田透は控えめに申し上げて酒に弱い方だった。


 ――男らしくない。


 と、よくなじられる程に。



 入店時、周囲に他に客は見当たらなかった。個人経営の小さなバーなのと、平日のまだ早い時間帯というのが理由かもしれない。


 マスターことバーテンダーは、相づちの一つも打たずコップを拭いたりと作業中だ。客の愚痴をすべて聞き流しているような、なんとも冷たい態度である。


 彼のこの接客態度の優しさのなさもまた、どことなく閑古鳥がつきまとう店の雰囲気の原因の一つなのではなかろうか。


 ただ、静かなBGMが流れるだけの店内は、そう言う方が好きだ、一人でゆっくり酒を飲みたいという層に密かな人気があり、隠れ家のような有様を気に入って通い詰める客もいる。透はそういう一人だった。


 残念ながら大勢との飲みでは、彼は自分を抑圧して引きつった笑みを浮かべなければいけないことの方が多かったため。



 マスターは無口でにこりともせず、けして親切とは言いがたい男だったが、来れば透の好物のお通しやカクテルが何も言わなくてもすっと出してくれる。


 ちなみに橋田透はわかりやすく子ども味覚だ。カクテルはカルーアミルクが一番の好物、お通しは甘味に合うポテトチップス入りのオムレツが気に入っている。


 ――男が、カルーアミルクなんて。ださい。子どもっぽい。女子かよ。


 そういう声を、ここなら誰にもかけられずに済む。彼らに悪気はない。悪気がなかったからこそ、少しずつ透は消耗していった。



 実は退職について考えたのはこれが初めてではない。入社二年目には既に、透は退職願を打診していた。

 そのときはどの企業でも三年間は勤めなければ真価がわからないものだとか、そんな感じの理屈で説得されてとどまった。透自身、不完全燃焼というか、まだ離れきれない気持ちもあったのだし。


 けれど一年後、透の気持ちは変わらず、会社の形も変わらないままだった。仕事内容自体は嫌ではなかったが、周りの人間との最初は微かな、退社する頃にははっきりと感じていたずれが決定打だった。


 大手企業という組織はまぶしく希望に満ちていたが、穏やかでちっぽけな透には少々大きすぎたのかもしれない。



 貸し切りの店内を贅沢に使って、透は思いのままをぐちぐちと連ねている。何せ彼は普段、ニコニコして文句の一つも言わない男なのだ。今日、この瞬間だけは特別。人生初の大挫折にすっかり傷心の身なのだから。


「お前みたいな愛嬌しか取り柄のない軟弱男なんて、何の価値もない。性別が女ならいい嫁さんになれただろうに、か……」


 ふとつぶやく言葉は、何度か会社で零された言葉だった。


 実際にはそのままずばり言われたわけではなく、オブラートに遠回しに時間をかけてくどくどねちねちと――だったわけだが、端的にまとめれば透の周囲は口々に彼にそういう言葉をかけた。


 ――女々しい。男らしくない。へらへらすんな。


 第一印象には優しそう、社交的と褒めるその口で、人はしばしば透をなじる。


 気持ちのいい笑顔と挨拶。他人の顔色を無意識にうかがって従う温和で素直な性格。透の得意分野であり美点。学生時代はことごとく褒めそやされた。


 だが、社会人になるとそれだけでは許されなかった。なまじ学校や適性検査の成績がよく、面接の印象がよくて期待の新人と思われていたのがより一層、失敗時の風当たりの強さにつながったのかもしれない。



 ぐるぐると、言われてぐさっと心に刺さったネガティブな言葉達が頭の中を回っている。突っ伏したまま透は情けなくめそめそと泣いた。


「花嫁の方がよっぽどお似合いだって言うならもう、この際再就職先はそれでいいよ……。優しくてかっこいいお婿さんに心を込めて尽くしてみせる。それで幸せな家庭を築くんだ……」


 傷心と酔っ払いのコンボは前頭前野の自重機能を見事に破壊し、欲求のまま口からあらぬことをダダ漏れさせる。自分でも何を言っているのかよくわかっていないままに。


 ――そして幸か不幸か、このちょっとしたつぶやきが、透の運命を変えることになる。


「ほう? それは面白い。実に面白い」

「んー?」


 突然、背後から凛とした女性の声が上がり、透はふわふわ夢見心地のまま、トロンとした顔をそちらに向けた。


 店内の隅、テーブル席に女性が座っていた。いつ店に入ってきたのだろう? 全然気がつかなかった。よっぽど酔いが回っているに違いない。彼女はすっと立ち上がると荷物を持って移動してきて、透の横のカウンター席に腰を下ろす。


 グラスが置かれると、カラン、とカクテルの氷が音を立て、琥珀色の液体が揺れた。

 ぼんやりした焦点で、なんとなく透は首をかしげる。


 ――あれ、店で一番度数のきつい奴じゃなかったっけ。


「失礼、マスター。ちょっとこの坊やとお話をしても? なに、取って食ったりはしない。迷惑そうならやめる」

「……えっ?」


 透が素っ頓狂な声を上げたのは、女性の言葉に対してではなく、視界の中、カウンターに乗せられているものが、オフィスカジュアルなシャツの下でも主張するボリューミーな胸に対してであった。


 大きい。そして美しい。芸術的な肉感だ。


 何せ彼の頭は未だにぐでんぐでんのままである。検閲を通していない思考回路は自由にどこまでも飛んでいこうとする。


 だが今の視界的パンチでちょっとだけ目が覚めた。


 慌てて突っ伏していたカウンターから身を起こした彼の目の端では、無口なマスターが女性を一瞥して「好きにしな」とでも言いたげにふっと目をそらしている。


 ぎょっとして身を起こし、引き腰になっている透に向かって、女性がすっと胸元に手を差し入れたかと思うと、何か出してきた。


「さて、突然失礼した。私はフリージャーナリストのナギリシズカと言います。以後、お見知りおきを」

「あ、これはどうも……」


 あまりに洗練された動きに、一瞬刑事ドラマでよくあるあれかと思ったら、何のことはない。ただの名刺交換だった。 

 慌てて透もポケットをあさる。酔ってべろんべろんになっていても、彼のお辞儀はしゃんと背筋が伸びている。


「スカイラインコーポレーション――じゃなくて。ええと、無職の……橋田透、です」

「うむ。よろしく、トール君」

「君……!?」

「何か問題でも」

「な、なんでもないです!」


 女性はぱっと見た感じ、透より少し年上のようだった。化粧がばっちり施された整った顔、適度に崩れたおしゃれにスーツ、そして態度。なんかこう、よく言えば華がある、そのまま申し上げてよいのなら威圧感の塊――なんとも存在感の強い御仁である。


 何故彼女が店内にいたのにさっきまで気がつかなかったのだろうと、不思議で仕方ない。透の目は節穴なのだろうか。たぶんそうなのだろう。何せ酔っ払いだ。


 もらった名刺に目を落とす。ぱっと入ってきた言葉は「百鬼静華」だ。静華はともかく、おそらく苗字である部分が読めない。ひゃくおに……ひゃっき……? と首をかしげている透は、先ほど女性が自分で名乗っていたのを思い出す。



 ナギリ。ナギリシズカ。百鬼静華。


 強そう。



 ごくごく単純な思考回路になっている透は、真っ先にそんなことを思ってしまう。女性のハスキーな声と独特のしゃべり方が、より一層印象補強に役立っていた。


「早速本題に入るが、先ほど君の独り言を聞かせてもらった。まあ、立ち聞きは本来マナー違反なのだが、偶然のいたずらということで大目に見てほしい。これも一つの縁だと思う」

「ええっと、あの……すみません、ちょっと、よくわからないんですが……?」


 先ほどの視界の暴力で大分飛んだが、元々弱いところを三杯ぐらいあおっている状態の透である、頭ははっきりしない。


 女性はふむ、と言って足を組み直した。思わず動きを追いそうになって、慌てて透は下を向く。


「君、さっき会社を辞めたと言っていたな? 就職先が特に決まっているわけでもないと」

「あの……はい、そうです」

「それで、再就職先は花嫁でいいとも言っていた」


 割と最初からマスターに延々語っていた愚痴を聞かれていた上に、最後の言葉まで言われて透は顔が赤くなるのを感じる。


 が、慌てるのはまだ早かった。次に女性が言い出したことの方が、よっぽど衝撃的だったからだ。


「だったらちょうどいいじゃないか。君、私の嫁に就職しないか?」

「……はい?」

「恋人からでも家政婦からでも、なんならペット志望からでも構わないよ。まずは家事をやってほしい部分もあるけれど、私を癒やしてくれる存在ならひとまずそれだけで十分。いずれ伴侶にキャリアアップする意欲があるなら、投資は惜しまない。お金ならある」

「あっあの――」


 パニックになってあわあわしている透に、女性――静華はふっと妖艶な笑みを向けた。


「橋田透君。私は君がとても気に入ってしまった。交際を申し込みたいのだが、どうだろうか」


 就職に失敗し、失業して、人生初の大挫折。次の進路の方向性すら見いだせず、腐りきって一人酒。


 と、思っていたら思いもよらぬ縁が転がり込んできたものである。



 が、思わぬことすぎて余裕で容量オーバーでもあった。


 橋田透は微笑みを浮かべる女性の前で、耳まで真っ赤に染めたまま、完全にかちんこちんに固まって、何もできなくなってしまっていた。

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