アイ、伝染す ver2.0
一体どこまで逃げれば、この悪夢は終わりを迎えるのだろうか。
ひたすら走り続ける息吹が二つ。それは茶髪で長身の男と金髪碧眼の女のものだった。男の名前はロバート、女の方はエマという。崩壊した街から逃れて郊外へと向かった二人。底知れぬ恐怖と先の見えない未来への不安。それらが重なり合い、彼らの心中に拭い切れない淀みが生まれていた。
そうして辿り着いた場所には人の気配が無かった。がらんどうの住宅の数々に、音が消失したかのような静寂の空間。未だに日が出ているというのに、和やかな空気は皆無だった。
嫌な風が肌を撫でる。ここで立ち止まるのは危険かもしれない。しかしエマは先程から疲れた様子だ。あまり無理をさせては体力が底をついてしまう。
「仕方ない。ここで一旦休もうか。休養は取れる時に取っておかないとな」
「そうね。正直もう走るのが辛かったの。これで少しは落ち着けそうね……ウッ!」
途端に左腕を抱えるエマ。その顔に苦悶の表情が刻まれる。彼女は痛みに耐え切れず、その場にしゃがみ込む。
「どうした!」
すぐさまロバートは彼女の元へ近寄る。痛みの元凶であろう左手を見ると、甲に引っ掻き傷のような物があった。その周りが赤く変色していて、見るからに痛々しかった。それだけでなく、火照って顔が赤くなったり呼吸が乱れたりしている。
「何てことだ……、炎症を起こしてるじゃないか。急いで休める所を探さないと。歩けそうか、エマ?」
「ええ、大丈夫よ。いきなり痛み出したから少しびっくりしただけ」
そう言ってエマは虚脱した力を振り絞って、ロバートに笑顔を見せる。無理をしていることが一目で分かってしまうほどの、他愛ない嘘。ロバートは己の心が引き裂かれたような感覚に陥った。だが、表面上だけでも取り繕おうと、彼は弱々しい笑顔で返答する。
「無理するなよ。ほら、支えてやるから俺の肩に掴まれ」
「ありがとう。……前から思ってたけど。ロバートって見た目の割に紳士的よね」
「一言余計だ。黙って俺に寄り掛かってろ、傷に響くぞ」
「はいはい」
ロバートはエマの右手を肩に回して、彼女を支えながら立ち上がる。辿々しい歩みで彼らは休息の地を探し始めた。
路地の奥へ入った先に大きな樹があった。これまでの土地とは対照的に、生命力のみなぎる緑に彩られていた。その光景に安心感を覚え、二人はそこに腰を下ろした。
「ほら、見せてみろ。応急処置ぐらいはしてやる」
ロバートはぶっきらぼうに右手を差し出す。その不器用な気遣いに、エマは思わず吹き出す。
「ホント、不器用な人ね。もっと優しく言ってくれても良いのに」
「これが俺の限度なんだよ。これ以上の改善は見込めない」
ロバートはシャツの袖を破り、エマの左手に巻き付ける。
処置を施された己の手を見て、エマはロバートの優しさを内心で嚙みしめた。
ロバートは、休む間も無く様々な思案を巡らす。他で生き延びているだろう人々とはどこへ行けば会えるだろうか。底を尽きそうな食料の補給はどこでするのか。これから俺達はどこへ逃げればいいのか。しかし、どれだけ巡らそうとも答えは一向に出てこない。
何か、何かこの霧に包まれた現状を打破するものは無いのか──────。
「どうしたの、いきなり黙り込んで。ただでさえ怖い顔がさらに怖さを増してるわよ」
と。エマの声によって、ロバートは思考の迷路から強制的に出された。
「あぁ……。ちょっと考え事をしていた。というか、また一言余計なことを言ったな。俺はそんなに怖いか?」
「ずっと付き合ってきた私でも未だに怖いわよ。だって黙ってる時の貴方って、そこら辺のギャングと大差無いもの」
マジかよ、とロバートは軽く項垂れる仕草を見せる。
「でも、そんな見た目とは裏腹な優しさが、私は好きなんだけどね」
その言葉を聞いてロバートは顔を上げる。エマは温かい微笑みを浮かべていた。それに呼応するように彼も笑いかける。
何てことのない二人の会話。しかし、極度に張り詰められた緊張が幾分ほぐれたように感じられた。
気づけば、辺りには斜陽の光が注がれていた。橙色の陽射しは樹木に寄り掛かる二人にも向かってくる。
「なぁ。これから先、俺達は一体どうなるんだろうな」
と、弛緩した表情を再度張り詰めるロバート。遠くを見つめる彼の瞳に、エマは思わず固唾を呑む。
呟かれたのは弱く、脆く、それでいて重い言葉だった。それに対して、彼女は咄嗟に言葉を発することは出来なかった。
それを考えたのは今に始まったことではない。街でヤツらが現れた時から反芻するように巡った思考。繰り返す度に二人の心は気づかぬうちに消耗していた。そして今。ロバートの心の箍は外れかけていた。
これまで見せることの無かった彼の弱気。それを見たエマは激しく心を揺さぶられる。彼の問いに彼女が答えることは出来るはずもない。しかし、彼の心の曇りを拭い去ることは出来る。
「なぁに、しおらしくなっちゃってるのよ。いつもの貴方らしくないわ。風邪でも引いてるんじゃないの?」
放たれたエマの言葉にロバートは衝撃を受ける。その激しい揺らめきは、彼の目を覚まさせるのには効果的だった。
「なっ……。冗談を言ってる場合か!? 俺は真面目な話をしてるんだぞ!」
「だから、それが貴方らしくないって言ってるのよ。真面目くさい顔で弱気なことを言うなんて似合わないわ」
エマは右の人差し指をロバートの顔に向ける。彼女の眼差しもその先に照準を合わせられる。
「いい? 私だってこれからのことは不安で一杯だし、内心じゃあ捨てられた子犬のように震えてるのよ。けど、いつまでも後ろ向きにいては駄目だと思うの。これは命懸けの闘いなんだから、前を向いて立ち向かわなくちゃいけない。希望を掴むためなら、私はたとえ闇の中でも突っ走るわ。私が愛する貴方だったら、一緒に来てくれるでしょう?」
投げかけられた言葉は、ともすれば地獄の底までの同伴を誘う物だ。
ロバートはエマの瞳を見つめる。彼の答えを期待する純粋な瞳。数秒の沈黙を以って、彼は拳を固く握り締める。
「あぁ、当たり前だろう。地獄だろうが何だろうが、どこまでも付いて行ってやるよ。むしろ置いてかれるんじゃねぇぞ、エマ」
「そうこなくっちゃ」
そうして、二人揃って笑い出す。一気に緊張の糸が緩まり、和やかな空気へと変わる。そんな二人の笑顔を輝かせるように、陽光が一層照らされる。
「さて、そろそろ寝床を探すとするか。野宿は危険だろう」
「そうね、少しでも壁はあった方が安心できるし。無人の家だったら好き放題使えるものね」
「その言い方だと犯罪臭がより漂ってくるな……。まぁ、文句は言ってられないか」
移動するためにロバートは立ち上がろうとした時、
「ウッ……!」
隣から呻き声が聞こえた。ロバートが横を見ると、エマは身を抱えるように悶えていた。
「どうした!? また左手が痛むのか?」
ロバートは苦しむ彼女を力強く抱き寄せる。触れた彼女の体温は人並み以上に上昇していた。さらに汗にまみれた肌が服にベタついている。
「そうじゃない……。体中が、疼くの……」
エマの白い肌がみるみる紅潮していく。呼吸は絶え絶えに乱れている。
彼女の辛苦を前に、ロバートはただ動揺し見守ることしか出来ないでいた。
「畜生、結局俺はお前を助けられないのか……! 何て無力なんだ、俺は!」
ロバートは嘆き、エマは苦しむ。ようやく見えたはずの希望への道が、再び途絶えようとしていた。
その中、ロバートはある予感を抱く。これらの症状に見覚えがあったからだ。しかし、その予感はさらなる絶望へと続く物だった。
「まさか……! あの傷はヤツらに負わされたものだったのか!?」
最悪の予想が思考を超えて肉声と化す。そして、それは確定した事実へと変わる。
先程まで荒々しかった呼吸が急に治まった。それに気づいた時にはすでに遅かった。
「────アアアァ!!」
弾丸の如く飛び出した腕。その爪の切っ先がロバートの頬をかすめた。
「うわっ!?」
ロバートは思わずエマを離し、逃げるように後方へ下がる。頬の傷から一筋の血が垂れ流れる。
一方のエマは、地面に手を付いて立ち上がろうとしている。獣のような唸り声を上げながら。さながら、人間であることを忘れたかのように。
「ウウゥ……」
「嘘だよな……。そんな訳無いよな……?」
ロバートの心中を絶望が覆う。それはあまりにも残酷で不条理な現実だった。
どれだけ彼が目前のことを否定しようとしても、彼女はもう戻らない。
「ア、アァ……」
白く濁った目、脱力した両手、緩慢な体動、野生的な呻き声。それらは全て、ウィルス型兵器“ヴァンプ”に感染した者の兆候だった。その前触れとして、急激な体温の上昇と呼吸の乱れが生じる。一度感染してしまえば、人の血を求めて人を喰らう怪物になってしまうのだ。魂を犯して人道から突き落とす、脅威の細菌。エマはその犠牲となってしまった。
この現実へと昇華した悪夢を、ロバートは受け入れざるを得なくなった。自分の愛する者はもう元に戻らない。治療薬といった救済は存在しないからだ。
となれば、ロバートは決断しなければならない。彼に提示される選択肢は二つ。この場から逃げ出して一人だけ生き延びるか。それとも────
「エマに喰い殺されるか……」
それでも良いかもしれない、とロバートは自棄に近い気持ちを抱く。
エマを置き去りにして逃げることなんて出来るはずもない。たった一人で生き延びるぐらいなら、ここでエマの養分となった方がむしろ本望だ。
エマは立ち上がり、一歩、また一歩と近づいてくる。ロバートは微動だにしない。彼の手足は震える一方で、涙が地に向かって流れ行く。だが、濡れた瞳の奥には覚悟の火が灯されている。
やがて、ロバートとエマは向かい合う。エマの手がゆっくりと確実にロバートの方へ伸びていく。己の欲求を満たすために。目前の男から血液を奪取するために。
ロバートは生への執着を断ち切ろうと目を閉じる。流れに身を委ね、エマのしなやかで白い指の接近を待つ。
刹那。
彼の脳裏にあの言葉がよぎった。
『私が愛する貴方だったら、付いて来てくれるでしょう?』
開かれる両目。相対する恋人の姿。それは、我を忘れて血を求める怪物の姿。ロバートの心は悲壮に飲み込まれていく。
「クッ……! ウワァァァ!!」
ロバートはエマの細い腕を払いのけた。そのまま彼女を押し倒し、彼女の体に跨る。そして彼女の首を両手で絞め上げる。掌に柔らかな肉の感触が伝わる。生命の危機に瀕したエマは、目前の腕を引き剥がそうと掴みかかる。ともすれば腕が潰れるのではないかというほどの激痛が走る。しかし彼はなおも首を離さなかった。
ここで機を逃してしまえば、彼女は一直線にロバートに襲いかかるだろう。そうなれば、彼女を救うことは永劫に不可能となる。何としてもここで終わらせなければならない。
「アァ、アアアァァァアアア!!」
「ごめん。ごめん。本当にごめん……!」
一方は食欲を満たすために目前の男を喰らおうともがき、もう一方は愛する者に罪を負わせまいとして彼女の命を絶とうとする。どちらに転んでも失われるものしか存在しない攻防。
それはただの見間違いだろうか。理性を失ったはずの彼女の瞳が悲しそうに揺らいでいたように、彼には見えた────。
いつまで攻防が続いたことか。やがて電源が切れたかのように、エマは静かに力尽きた。重厚な静寂が辺りを包む。聞こえる息吹はロバートのものだけ。彼はエマを見つめ、途方に暮れていた。
本当は殺したくなかった。エマのためなら、と心から死を受け入れようと努めていた。
しかし彼の決意を揺るがしたのは、彼女の生前の言葉だった。打開策など全く無い状況において、未来に希望を見出そうとした彼女。だがその光が途絶え、絶望の淵へと堕ちてしまった。あまりにも悲惨な顛末を前に、ロバートは直視することが出来なかった。
飽くまで人間としての幸福を求めた彼女に、怪物としての余生を与えるのは酷い話だと思った。彼女の魂を解放するために、先程の凶行に至ったのだ。
「俺が、この手で奪ったんだ。エマの命……。エマの未来を!」
押し寄せる罪悪感。どれだけ大義名分を掲げようとも、その十字架は一生ロバートを苦しめ続けるだろう。
──ハラガヘッタ。ホシイ、チガ、ニクガ、ホシイ。
彼の脳へ襲い来るのは魔の欲求。それに飲み込まれてしまえば、二度と人には戻れなくなる。ロバートは頭を抱える。湧き上がる欲求を無理やり抑えようと試みる。
そうして葛藤の末に悪魔の囁きは聞こえなくなった。ロバートは未だに自我を保っていることに安堵する。
しかし。
「ハッ……。俺も直にヤツらの仲間入りって訳か」
悲哀、絶望、そして恐怖。ロバートの心に侵食するのは黒い感情ばかりだった。
彼は再度、息絶えたエマの顔を見る。苦痛に耐えた恋人の死に顔。目は白く見開かれ、口から唾液が溢れている。彼は手でその目を閉じさせ、唾液を拭き取る。今まで彼女を満足させられるようなことをしてあげられなかった彼の、せめてもの供養だった。
「許してくれなんて言わない。この罪は俺の生涯をかけて償っていくつもりだ。それでも、これだけは言わせてほしい。
愛してたよ、エマ」
そう告げて、ロバートはエマに接吻した。哀れで儚く、悲壮感漂う愛の証明。
なんと味気ないものだろうか。温もりの無い唇に触れたところで、得る物など無い。そこに生まれたのは、止めどなく零れ落ちる涙だけだった。
静寂に包まれた孤独の地。そこでただ一人、愛の消失を悲しむ化物が静かに泣いていた。
※
一体どこまで逃げれば、この悪夢は終わりを迎えるのだろうか。
不慮の事故により蔓延したウィルス型兵器“ヴァンプ”は、瞬く間にジュディ達を追い詰めていった。どこまで逃げても、行く手にはヴァンプの感染者。人を喰らう化物達に追いかけられるという現実は、非力な彼女達にはそれこそ悪夢でしかなかった。
「ハァ、ハァ……。クソッ、どうやら私達はここまでのようね。何て惨めな最期なのかしら!」
「諦めるなよ、ジュディ! まだここから抜け出すきっかけが見つかるかもしれないだろ!」
デイビッドの叱咤が響く。しかし目前の幽鬼の群れに目を遣ってしまえば、彼女の心奥から込み上がるのは絶望と諦観だけだった。
周囲から聞こえる不快な呻き声の輪唱。残り幾許も無い時間で、その輪唱に仲間が増えることだろう。
「そんなの気休めにしかならないわ。残ったのはアンタとワタシだけだし、他に助けてくれそうな人はいない。これ以上の希望なんて持てるはずないじゃない!」
ジュディの心の箍はすでにこじ開けられそうになっていた。
ジュディの叫びを聞いて、デイビッドの顔が陰る。彼女の言葉は間違いなく現状を言い表していた。だからこそ、デイビッドは否定することが出来なかった。
じわりじわりと忍び寄る魔の眷属達。自らの生を放棄したのか、ジュディもデイビッドも狼狽えるようなことは無くなった。後はされるがままに、化物達に蹂躙されるのみ────
「おいおい。人間がそんなに諦めたら駄目だろう。最後の最後まで足掻こうぜ」
それは刹那だった。ジュディ達と感染者達との間に突如として飛来した一人の男。感染者の方へ向き合う男の背中は彼女達に希望の兆しを見せた。
男は生気の無い瞳で、己の敵を見定めている。そんな彼に、ジュディは率直に問いかけた。
「貴方は、一体誰なの……?」
すると、その問いに答えるべく男は振り返る。
「俺の名前はロバート。ただのしがない化物さ」
それは悲劇に見舞われた男の名前。不思議と彼の虚ろな目の中には、哀愁と強い意志が込められているように感じられた。
この作品と向き合うことおよそ3ヶ月。
数々の方のご助力を借りて、なんとかここまで書き上げられました。これが現段階での僕の集大成だと思っています。
執筆のお力添えをしていただいた方々に心から感謝を述べたいです。